藤井聡太・七冠の「全冠制覇」なるか──。10月11日の王座戦第4局で永瀬拓矢・王座に勝利すれば藤井七冠は将棋界の8タイトル独占を達成する。「全冠制覇」は羽生善治・九段(日本将棋連盟会長)が1996年に七冠(最新のタイトル「叡王」は2017年から)を達成して以来の偉業だ。
まさに「将棋界の歴史」が変わる瞬間が目前に迫るなか、半世紀にわたってプロ棋士たちの活躍と日常を写真に収めてきたベテラン写真家・弦巻勝氏の著作『将棋カメラマン』(小学館新書)が発刊された。1970年代に「将棋界の巨人」と呼ばれた大山康晴・十五世名人から「令和の若き天才」藤井聡太・七冠まで、脈々と受け継がれる「個性的な名棋士たちの系譜」をカメラマン・弦巻勝氏の貴重な写真とともに振り返る同書から、野武士を思わせる風貌で知られ、今なお数々の伝説が語られる升田幸三・九段の秘話を紹介する。
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升田幸三と「陣屋事件」
豪放磊落なキャラクターで「巨人」と呼ばれた大山康晴先生とともに、戦後の将棋界をリードしたのが升田幸三先生(九段)だ。大山先生にとっては木見金治郎(九段)一門の兄弟子にあたるが、70年代半ばにはすでにセミリタイアに近い状態にあったため、僕が撮影した写真はそれほど多くない。
それでも、数々の伝説を残した名棋士を撮る機会に恵まれたことは、僕の大きな財産となっている。
最初の取材では、升田先生のご自宅にお邪魔させていただいた。
「先生、お持ちの駒でいちばん良いのを見せていただけますか」
僕がお願いすると、無言のまま奥のほうから大事そうに駒を持ってきてくれた。
「撮らせていただいてもよろしいでしょうか」
すると、升田先生はこうつぶやいた。
「みんな人にあげてしまって、いまはこれしか残っとらん」
その駒は、升田先生が親しく付き合っていた天才駒師・宮松影水の手による盛上駒だった。
「これ、歩が足りんのじゃ」
僕が将棋盤に駒を並べてみると、40枚の駒がきちんと揃っている。
「え、足りてませんか?」
「歩が足らん」
将棋カメラマンとして駆け出しだった当時の僕はあまりに無知だった。升田先生によれば、将棋の駒は1枚だけ歩を多く作るのが正しく、余りがないのも2枚以上多くなるのも邪道なのだという。
「心持ちや」
野武士のような風貌の升田先生がそうつぶやいたとき、僕は将棋の世界の深奥を感じた。