藤井聡太・七冠の偉業達成なるか──。10月11日、永瀬拓矢・王座との王座戦第4局に勝利すれば、羽生善治・九段(日本将棋連盟会長)以来の「全冠制覇」となる(羽生は1996年に当時の七冠独占で達成)。
「将棋界の歴史」が変わる瞬間が目前に迫るなか、半世紀にわたってプロ棋士たちの活躍と日常を写真に収めてきた大ベテラン写真家の著作『将棋カメラマン 大山康晴から藤井聡太まで「名棋士の素顔」』(小学館新書)が話題だ。カメラマン・弦巻勝氏の貴重な写真とともに振り返る同書から、のちの「全冠達成」により全国的なフィーバーを起こす以前の「羽生善治少年」の逸話を紹介する。
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原田邸にいた「賢そうな小学生」
初めて羽生善治さんの写真を撮った日から、40年以上が経つ。改めて振り返ると、これほど長い間にわたって写真を撮り続けた被写体は他にいない。ふた回りも世代が違うけれど、僕のカメラマン人生は羽生さん抜きには語り得ない。
将棋界の長老、原田泰夫先生の自宅を訪れたのは1981年のことだった。当時の原田先生は現役を引退する直前だったが、この日は小学館が出版する子供向け将棋入門書に収録するために、二枚落ち(上手が飛車と角行を落として指す将棋)による小学生との指導対局を撮影することになっていた。
阿佐ヶ谷にある原田先生の自宅には、賢そうな表情の小学生が数人集まっていた。まさかその一人が、後に国民栄誉賞を受賞する棋士になるとは思いもせず、僕は対局の模様を写真に収めた。
小学5年生だった羽生さんは原田先生に二枚落ちで敗れたが、「実力的にはアマチュア四段程度はあった」と原田先生は話していた。その後、僕は原田先生にかなりの頻度で自宅に呼び出され、1〜2時間ほど、酒を飲みながら先生の話を聞くというのがルーティンになった。先生の代名詞ともいえる「三手の読み」が話題となって、企業向けの講演で原田先生は全国を忙しく飛び回っており、僕を呼び出す目的は情報収集も兼ねた講演の「リハーサル」だった。
再び羽生少年と遭遇したのは翌年のことだった。
1982年4月、僕は「小学生将棋名人戦」を取材するためNHKのスタジオを訪れた。将棋連盟の大山康晴・会長と、当時八段だった谷川浩司さんが番組に出演するということで、2人の写真を撮るのが目的だった。
このイベントで見事優勝を飾ったのが羽生さん。3位には同学年の森内俊之さん(現九段)が入った。長きにわたるライバル物語が始まる記念すべき1日だったのだが、僕はそのことにまったく気づいていなかった。