「彼がいなければ八代亜紀は存在しない」。生前、そう語っていた八代さんが30年来のパートナーと離婚したのは2021年。古希を迎えた節目の年の大きな決断だった。直後に彼女を襲った病魔は6000人に1人といわれる難病。復活を信じ、最後まで闘い抜いた“演歌の女王”の壮絶人生──。
「八代さんは裏表のない人で、誰にでも分け隔てなく優しいかたでした。『80才になっても、90才になっても歌いたい』と言っていたし、年を重ねても絵を描くことはずっと続けられるわってよく話していたんです。いまもふと彼女から『先生のアトリエに行くよ』って連絡が来るような気がしてならないんですよ」
涙をのんでそう語るのは、昨年12月30日に肺炎で亡くなった八代亜紀さん(享年73)と30年来の交流がある画家の市川元晴氏。八代さんが、歌と同様に情熱を注いだ絵画の師である。
体調不良を訴えた八代さんが病院で膠原病に加えて急速進行性間質性肺炎と診断されたのは昨年9月。治療に専念するために芸能活動を休止し「必ず戻って来ますので待っててね」と宣言したが、その言葉が実現することはなかった。
「入院中の八代さんは一日も早い完治を目指し、懸命にリハビリに励んでいました。『元気になって早く絵を描きたい』、『コンサートもやりたい』と周囲に語り、活動再開に意欲を見せていましたが、亡くなる数日前に容体が急変し、関係者に見守られながら静かに息を引き取ったのです」(八代さんの知人)
1月8日に営まれた密葬には八代さんの親族や仕事関係者など30人ほどが参列したという。前出の市川氏が振り返る。
「普段と変わらず、おきれいな顔のままでした。(ひつぎに)彼女が油絵を描くときに使っていた絵筆を何本か入れてあげてね。『向こうでも絵も描き続けてください』、『みんなのために歌っていてください』というお手紙を添えてお別れしたんです。
酒もたばこもやらない彼女にとって、絵はいちばんの趣味でした。入院前に会ったときは今年の活動について話し合ったし、フランスでの展覧会の話も出ていたくらいだったので、まさかこんなことになるなんて……」
愛する人々に囲まれて旅立った八代さん。だが、お別れの場に30年以上の年月を共にした元夫の姿はなかったという──。
日本の音楽史に残る名曲『舟唄』や、第22回日本レコード大賞を受賞した『雨の慕情』などのヒット曲があり、“演歌の女王”と呼ばれた八代さん。デビューは1971年、21才のときだった。
「中学卒業後にバスガイドとして働いたが、歌手の夢を諦めきれず、地元・熊本のキャバレーのステージに立ったのが初舞台。父親の反対を押し切って家出同然で上京し、銀座のクラブで歌うようになったといいます。そのとき、同じ店で歌っていたのが、後に“五八戦争”と呼ばれたライバル争いを繰り広げた五木ひろしさん(75才)。彼の紹介で所属した事務所から『愛は死んでも』という曲でデビューしました」(レコード会社関係者)