八代さんの名を広く知らしめたのが、1973年に発売された4枚目のシングル『なみだ恋』。哀感漂うハスキーな歌声が話題を呼び、120万枚を超えるヒットを記録した同作でNHK紅白歌合戦に初出場した。
「ひとりで地方のクラブを巡業していたそれまでの生活は一変し、年に2日しか休みが取れないほどの売れっ子に。それでも給料は上がらず、後に本人が『70億円売り上げたのに、月給はずっと5万円だった』と振り返っていました」(前出・レコード会社関係者)
その後も次々にヒット曲を送り出す八代さんをマネジャーとして支えたのが後に伴侶となるA氏だった。
「元歌手で年齢は八代さんより5才下。仕事で芽が出ず、田舎に帰ったところを八代さんに引き戻されてマネジャーに転じました。以来10年近く裏方として彼女を支え、1987年に八代さんが事務所を独立した際も行動を共にしていました」(芸能関係者)
1994年に結婚したとき八代さんは43才だった。「結婚するならAくんがいい」と言っていた亡き父のすすめが彼女の背中を押した。
「Aさんは八代さんのスケジュールを管理し、公私で彼女のすべてをサポートしていました。八代さんがポリープで入院した際に、付ききりで看病したことも八代さんや彼女のお父さんが信頼を寄せるきっかけになったといいます。プロポーズは八代さんからで『お嫁さんになってあげる』と言ったのだとか」(前出・芸能関係者)
当時、ハワイ・オアフ島で行われた結婚式を取材した芸能リポーターの城下尊之氏が振り返る。
「ウエディングドレス姿の八代さんは新鮮で本当にきれいでした。Aさんはしょうゆ顔のハンサムで、物腰の柔らかい誠実なかたという印象。どちらかといえば八代さんの方がベタ惚れだったように思います。何しろ、お相手がマネジャーなのでマスコミ対応には慣れている。八代さんもサービス精神が旺盛なので、挙式だけでなく海辺でのインタビューなどの単独取材にも二つ返事で応じてくれたのを覚えています」
八代さんにとってA氏は精神的支柱ともいえる存在になっていた。
「彼女は生前、健康の秘訣はストレスをためないことが第一だと語っていました。信頼を置くAさんに悩みを聞いてもらうことが何よりのストレス解消法だと言い、そのおかげで大病を患ったことはないと話していたほど。Aさんは『煩わしいことはすべてぼくがやるから、あなたは歌だけを歌ってればいい』と言い、八代さんも彼の言葉に感激していました」(別の芸能関係者)
その後も30年近く苦楽を共にした“おしどり夫婦”が別の人生を歩む決断をしたのは’2021年。八代さんが古希と歌手活動50周年を迎えた節目の熟年離婚だった。
「何年も前から夫婦で話し合ったうえでの円満離婚とされましたが、八代さんの友人でもある浜村淳さんがラジオ番組で『原因は婿はんの浮気』と明かしたのです。相手は当時、八代さんの事務所に所属していた30代の歌手とされ、Aさんと30才近く年が離れているBさんの名前が浮上しました」(前出・芸能関係者)