全国の暴力団は厳しく取り締まられ、九州の工藤會はトップ2人が無期懲役判決を受け、弱体化した。そうしたなか、山口組は日本最大の暴力団として今も勢力を維持し、時に政財界をも動かす影響力を有している。
抗争から裏切り、全国進出まで、山口組は映画の世界でも数々の題材となってきた。『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋刊)の著者で映画史家の伊藤彰彦氏が、山口組の実像に迫った映画について語った。
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山口組中興の祖とも言える三代目の田岡一雄組長は、組員たちを食わせるために、様々な事業を手掛けました。
その一つが浪曲の興行を手始めとする芸能界への進出です。神戸芸能社を立ち上げ、所属する美空ひばりの出演作などで、組の関係者が主に東映の撮影所に出入りするようになった。それが1960年代頃ですね。
ここから山口組と映画界の結びつきが始まりました。
映画界では大正時代から、撮影隊がロケに出かけると、地元のヤクザがちょっかいを出してくるので、スタッフ側も地元のヤクザを雇ってボディーガードを務めさせ、これを「露払い」と言った。彼らはロケ先の手配など重要な仕事を任され、撮影所になくてはならない存在になっていく。この役割を次第に山口組が担っていった。
1963年から、東映は明治、大正から昭和初期を舞台にした任侠映画を作っていました。鶴田浩二の博徒シリーズや高倉健の日本侠客伝シリーズといった、いわゆる着流しヤクザが活躍する映画です。これらの作品が1970年代の初めに作られなくなって、入れ替わるように、1973年1月に封切られたのが『仁義なき戦い』シリーズです。着流しヤクザ映画はヤクザの様式美を描いていたのに対し、仁義シリーズは、実物のヤクザをモデルにし、金や欲にまみれた姿を描きました。
同シリーズで、山口組は『明石組』という名で登場します。丹波哲郎が演じた明石組組長・明石辰男は田岡一雄がモデルになっています。
シリーズ第三作目の『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年9月公開)は1960年代初頭が舞台。山口組がモデルの明石組と、同じく神戸を拠点とする神和会、その二大勢力に傘下入りした広島ヤクザの戦争を描いています。続く『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974年1月公開)も含めて、高度成長期の日本で勢力を広げていく山口組(明石組)の姿を知ることができます。