母娘は互いのことを口にしなくなった
2023年7月、6年ぶりに出場した「世界水泳選手権」で現実を突きつけられた。
「得意の100mバタフライと50m自由形で、まさかの予選落ちを喫しました。50mバタフライで7位入賞を果たして意地を見せましたが、世界とは渡り合えませんでした。それでも、レース後のインタビューで“いちばん喜んでくれていたのは母だと思う”と涙ながらに感謝を口にしていました」(前出・競泳関係者)
ところが、最大の理解者であるはずの母への言及が、その日を境にピタリとなくなった。娘とタイミングを合わせるように、母にも変化があった。
「美由紀さんはそれまで“池江璃花子を育てた母”“白血病と闘う娘の母”としてメディアに出たり、講演活動を積極的に行ってきました。ですが、2023年7月を最後に、美由紀さんの活動を告知するSNSのアカウントが更新されなくなったんです。その頃から講演も控えるようになりました」(別の競泳関係者)
2人の間に何があったのか。世界選手権以降、池江は自問自答を繰り返していた。
「世界との埋まらない力の差に不安を覚えたこともあって、さまざまな不調も抱えていたようです。インタビューで自分のことを振り返ろうとすると苦しくなることもあった。誰もいないところで、ひとり涙したこともあったそうです」(前出・競泳関係者)
このままではパリに行けない──そう痛感した池江は大きな決断を下した。2023年10月、活動拠点を競泳強豪国のオーストラリアに移したのだ。常に追われる立場の日本では、自分の可能性を狭めてしまう。追う側に回ることで、意識を変える狙いもあったのだろう。だがこの決断は、母の支えとの決別も意味していた。
「公私にわたって支えてくれた母のもとを離れる不安もあったはず。美由紀さんにも寂しさがあったようですが、背中を押したのは美由紀さんだったようです。強くなるためには“別れが必要”だと感じたのかもしれません。池江さん関連の仕事から距離を置いているのは、覚悟をもって離れた娘を、そっと見守りたいという気持ちがあるからなのではないでしょうか」(美由紀さんの知人)
以前、産経新聞の連載コラムに美由紀さんはこう綴っていた。
《子供はいつか必ず親離れしますし、またそうなってくれなければ困ります。そのためにはまず、親自身が上手に子離れできるよう、自分の生き方に輝きを持つことが大切です》
オーストラリアに渡った池江は、新たな気持ちで練習に打ち込み、不屈の精神でパリへの扉を開いた。それでも池江は満足していない。今大会、彼女は複数種目でのパリ五輪出場を目指していたが叶わなかった。出場権を逃したレース後、池江は悔し涙に暮れた。
「また一からやりたい。もっと自分に自信をつけないと、トップにはなれない」
そう決意を新たにした。美由紀さんはその様子をスタンドで見守っていた。そしてこう投げかけたはずだ。
「璃花子、できるよ」
奇跡の物語は、4か月後のパリへと続く。
※女性セブン2024年4月11日号