大相撲史上初の外国出身横綱になった曙太郎さんが、54歳の若さで亡くなった。2メートル4センチ、体重236キロの体格を生かした強烈な突き放しを武器に、入門から負け越しなしで新入幕を果たし、初土俵から所要30場所での横綱昇進を果たした。1988年初土俵の同期である若乃花、貴乃花との3横綱で空前の相撲ブームを牽引したが、2001年の引退後は短期間で相撲協会を退職。格闘技に転じたが、その裏では何があったのだろうか。
平成の相撲ブームを牽引した曙さんと若貴の3人は、結果的に全員、相撲協会を退職しているが、理由はそれぞれ違っている。相撲担当記者が言う。
「若乃花は兄弟不仲の影響で協会に未練がなかったとされ、貴乃花は弟子育成というより協会の運営に興味を持ってしまった結果、権力争いの末に協会を追われるようなかたちとなった。
一方の曙は、部屋の中だけでなく巡業先では他の部屋の若い力士の面倒も見ており、弟子の育成にも興味があったが、協会には残れなかった。引退後は、現役名で5年間協会に残れるという横綱経験者の特例を使って『年寄・曙』を名乗ったが、協会に残るために取得しなければならない年寄株を手に入れられなかった。そこが若貴との違いです」
そのため引退から3年弱が過ぎた2003年11月に相撲協会を退職し、その年の大晦日に格闘技のK-1に参戦。その後はプロレスに転じた。
「当時、年寄株を取得して協会に残るには3億円のカネが必要といわれていた。東関親方(当時、元関脇・高見山)からは部屋が継げそうになく、新たに興すには土地建物も取得しないといけないので10億円近い独立資金が必要だった。そんなカネを出してくれるのは個人タニマチ(後援者)ということになるが、複雑な事情があって現役中に個人後援会は解散してしまったのです」(ベテラン記者)