1990年代~2000年代にかけて芸能界を席巻したイエローキャブ。創業者であり数々の有名タレントを手がけてきた野田義治元社長(現サンズエンタテインメントプロデューサー)が当時と今を語る。
野田氏は渡辺プロダクションでいしだあゆみ、朝丘雪路らのマネージャーを経験したのち、仲間と一緒に芸能事務所を作る。
「それまでマネージャーをさせてもらっていたいしだあゆみさんのような女優や歌手を育成するためにイエローキャブを設立し、1986年に社長に就きました」
そこで出会ったのが、今や伝説となった夭折のアイドル・堀江しのぶだった。
「イエローキャブで最初に手がけたタレントは堀江しのぶです。しのぶはクラリオンガールコンテストの会場で初めて出会いました。まだ17歳だったけどすごいオーラを感じました。『この子を育てたい』と強く思いました。コンテストが終わると、僕は彼女を東京から彼女の実家のある名古屋まで送り、その場でお父さんに直談判してデビューさせました」
堀江しのぶは、明るく健康的なキャラクターでグラビアをはじめ、ドラマやバラエティなどで活躍を見せた。
「名前を売るために、しのぶにはまずは水着になってもらいました。グラビアで注目を集めてからドラマやバラエティなどに進出させる『一枚ずつ服を着させていく』イエローキャブ流のやり方は最初から一貫していました。それとタレント本人の価値が下がることはさせなかった。写真集で手ブラはさせても雑誌のグラビアでは手ブラはさせない、またTV番組で水着にはさせない、とかね。当然、裸は絶対にやらせなかった」
しかし、前途洋々に見えたイエローキャブを悲劇が襲う。1988年の堀江しのぶの他界だ。
「しのぶが亡くなったときは、頭の中が真っ白で何も考えられませんでした。葬儀や各所への説明などもこなしたはずなのですが、どうやってこなしたのか、どうやって生活していたか覚えていないんです。あのときの半年くらいの記憶が今もないんです。確実に彼女は才能があり、僕は彼女を本物の女優にしたかった」
道半ばで堀江を女優にすることを絶たれた未練は今も残っているという。失意から1年後にかとうれいこ、その後に細川ふみえや山田まりや、小池栄子、佐藤江梨子、MEGUMIなどがイエローキャブに入り、 “軍団”は最盛期に向かう。
「“本物の芸能人”、つまりどんなことにも対応できる一流のタレントに育成する目標は変わっていませんでした。グラビアだけでなく歌手デビューさせたのもそのひとつでした。きちんとした芸があれば、それだけ長く芸能界で活躍できますから」
イエローキャブの1番の武器であるグラビアでは“水着”と“胸”の見せ方に人一倍こだわった。
「自然で美しい胸の形にするため、現場で水着の紐をオレが調整していたのを見られたからか、『野田は自社の子の胸をしょっちゅう触ってチェックしている』なんて言われたけど、あれは違うから! どうすれば自然で美しい形になるかバランスが大事なんです。
胸のケアにも気を使ったよ。あるときタレントに『このブラ欲しいんですけど高いんです……』と言われ、『おう、いいぞ、どれだ?』聞くと、なんと38万円。胸は商品でもあるから大事にしたいんだけど、大きなサイズの輸入物下着の高額さを知ってさすがに驚いたね。結局、自分で言った手前払ったよ(笑)」