「ジャップは人間では無い」
こうした日本の現状を、アメリカは正確に把握していた。原爆投下以前の話に戻るが、このままでは必ず日本は本土決戦を実行するだろう、ということである。もし昭和天皇の聖断が無く、日本が本土決戦に突入していたらどうなっていたか? 沖縄一県だけで民間人十万人が犠牲になったのである。日本には他に都道府県が四十六もある、単純計算はできないまでも、アメリカ兵のみならずきわめて多くの日本の民間人が犠牲になったことは間違いあるまい。
俗に「盗人にも三分の理」というが、アメリカ側の「原爆投下によって戦争は終わり、アメリカ兵のみならず(本土決戦が実行されていたら死んだはずの)多くの日本人の命をも救った」という主張は、一理も二理もあるものなのである。
もちろん、念のため繰り返すが、どんな理屈も「一秒間のホロコースト」を正当化はしない。それは非戦闘員の大虐殺だからだ。しかし、戦争をやっていたのだからアメリカが広島、長崎という都市では無く、無人地区とか軍事施設である基地や軍港に原爆投下したのなら、日本は文句を言える立場には無いということだ。「核兵器は廃絶すべきだ」という理想は「投じてみて初めてわかった現実」であって、当事者にはわからない。
ここで映画『オッペンハイマー』に戻ると、それは実在の人物である原爆開発者ロバート・オッペンハイマー博士の生涯をたどることにもなるのだが、まず彼が原爆を開発したのはやむを得ない事情と言えるだろう。なぜなら、ナチス・ドイツが原爆製造に着手していたからである。ドイツは当時最新鋭のロケット兵器V2号も所有していた。開発競争に遅れをとれば、ナチスのほうが世界最初の核ミサイル保有国になったかもしれない。それを阻止するのは当然だ、ということだろう。
ユダヤ系であるオッペンハイマーにとって、ホロコーストは同胞の大虐殺でもある。しかし皮肉なことに、ドイツはオッペンハイマーも含むユダヤ人の優秀な学者を無視したことによって核開発に遅れをとり降服した。ならば完成した原爆を封印するという考え方もあったのに、アメリカは先に述べたような論理で日本に対して使用した。問題は、この使用に際して当時のアメリカでもまず無人地帯に投下して警告すればいいではないかという意見があったということだ。
しかしオッペンハイマーは使用に賛成し、後に広島・長崎の惨状を知った時点で水爆開発については阻止する側に回った。その態度がアメリカからソビエトなど共産主義を利する裏切り者ということになり糾弾されるのだが、原爆開発者として私はもっと断固として都市に投下すべきでは無いと主張すべきだったと思う。おそらく彼がそう主張しても都市への投下は阻止できなかっただろうが、それを試みなかったことは彼の人生の最大の汚点である。
そして、この映画自体の最大の欠点は、当時アメリカに間違い無くあった人種差別的感覚つまり「ジャップはイエローモンキーであって人間では無い」という感覚が描かれていないことだ。当時、同じアメリカ人であるにもかかわらず日系人は収容所に入れられ、ドイツ系は免れた。この差別感情は、結果的には白人国ドイツに落とさなかった原爆を、日本のしかも都市に投下することの背景にあったはずだが、そのことにこの映画はまったく触れていない。オッペンハイマーの伝記が中心だとしても、原爆投下を扱うならこの問題を無視してはいけない。
しかし、このことは、いずれこの映画に対する「アンサーソング」として日本人が創るべきものなのかもしれない。
〈文中敬称略〉
(第1417回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年5月3・10日号