最終学歴は「東京外語大学ロシア東欧語学部除籍」
手記はまず、1973年に福岡県北九州市に生まれた伊藤受刑者が極道の道に足を踏み入れる経緯から始まる。
〈地元の県立高校を卒業して、浪人後に東京外国語大学に進学した。センター試験5教科総合で9割弱を得点したので、2次対策はしていなかったが、後期日程で合格することができた〉(伊藤氏の手記より・以下〈 〉内同)
晴れて大学に進学した伊藤受刑者だが、実家には暗い影が差していた。彼が高校時代、母に子宮がんが発覚。転移が進行し、ほどなく世を去った。大学入学後、父が母の治療費の捻出のため借金を重ねていたことを知ったという。不幸はさらに重なり、弟も伊藤受刑者が大学在学中に事故で亡くなった。
家庭が崩壊して学費も払えなくなった伊藤受刑者は外語大を休学し、失意のなかで地元に帰ったという。
〈私が帰郷すると父は抜け殻のようになっていた。実家の団地には借金取りが頻繁に訪れた。そのうち父が蒸発した。父と再会を果たすのは、何年も先のことだった。私は天涯孤独も同然となった〉
学費滞納が続き、やがて大学から実家に除籍通知が届いた。
〈最終学歴は「東京外語大学ロシア東欧語学部除籍」となります。私が自ら外大を出身校と喧伝するのはおこがましく、学部名を公表することで工藤會という悪名がたいして人数もいない学部生の誇りに傷つけてしまわないかと心配しています〉
大学を辞めた後はアルバイトで生計を立て、職を転々としたのち、闇カジノバーの店員に。そこで工藤會の組員と昵懇になり、裏社会に人脈を築いていく。企業舎弟の代表格として3億円以上を組織に上納するうちヤクザの世界で〈自己実現したい〉と考えるようになり、1999年、25歳で工藤會系林組の組員になったと記す。