──舞台となった温泉地へ、プライベートで訪れることもあったりしますか。
「行ってみようと思ったことはありますが、実際にプライベートでは行けていないんです。『はる』として必死に生きた場所という想いが強い分、単なる観光地と思うことができなくて。すごく身近で大事な場所なんですけど、近くて大事だからこそ遠い。帰りたくても気軽には帰れない、“第2の故郷”みたいなものかもしれませんね。やっぱり、あの場所へ戻るときは、『はる』として帰りたい」
──ドラマは山中温泉にはじまり、西伊豆・土肥、信州・浅間、そして北海道の登別と舞台を移していきました。昼ドラとしては異例で、『はるちゃん』シリーズは1996年から2002年までの7年間でパート6まで制作されました。
「音無美紀子さん演じる女将さんから言われて、輪島に行っていた時期もありました。シリーズ化して長く愛されるというのは、本当に嬉しいことです。これだけ長く続くと、視聴者の方から『はるちゃん!』って声をかけられたり、別の作品の現場でもスタッフさんから『はるちゃん』と呼ばれるようになってました。『もう、“はる”って名前に変えようかな』なんて思うぐらい(笑)」
──人気作品の影響力はすごいですね。
「それだけ、みなさんの心に浸透していたということなので、とてもありがたく感じる一方、実は悩んだ時期もありました。シリーズが終了したあとも『私は、はるちゃんみたいなキャラクターを求められているんだろうか』、『はるちゃん以外の私も見つけなくちゃ』とか、そんな時間が長く続き、抜けきるまでに10年ぐらいはかかったと思います」
──当たり役を演じられた俳優さんの多くが経験する、ある種の呪縛のようなものですね。
「もちろん、私にとって大切な作品であるのはずっと変わりません。『はるちゃん』があるから今がある。剥がそうと思ったって、剥がれるものじゃない。大事な宝物。ただ、やっぱり30代の頃は『はるちゃん』のイメージのなかであがいていました。いろいろなものを受け容れることで、誰のものでもない“私の人生をちゃんと歩いて行こう”“全部抱えて次の段階へ進もう”と考えられるようになったのは、40代になってからでしょうか。それだけの時間がかかるぐらい、私にとっても思い入れがたっぷりなんです」
第2回では、成人式を行った石川県と中原さんの深い縁、能登半島地震の被災地への思い、思い描く20年後の“はるちゃん”について語っている。
(第2回に続く)