2004年の日本シリーズ第1戦、審判団と話し合う中日・落合監督と西武・伊東監督(時事通信フォト)
2004年日本シリーズでの球審「最大のピンチ」
重大なミスがなかったことで60歳まで審判を続けられた橘高だが、判定が難しい場面は幾度もあった。特に橘高が球審を務めた西武と中日による2004年の日本シリーズ第1戦は「最大のピンチ」だったという。
5回ウラの中日の攻撃、1死一塁の場面。谷繁元信のキャッチャーゴロを西武の捕手・野田浩輔が打者走者の谷繁にタッチした後に二塁へ送球した。球審の橘高は打者走者へのタッグプレー(タッチプレー)を宣告したが、二塁塁審がそれを確認できないまま二塁をフォースプレー(走者アウト)と判定。そして遊撃手が一塁に送球して「2-6-3」のダブルプレーが成立してしまったのだ。
この判定に対して中日の落合博満監督が、「打者走者にタッチしてから送球した。一塁ランナーはタッチプレーだから、併殺(ダブルプレー)にはならない」とアピールし、それが認められて「2死二塁から試合再開」と判定が覆った。
ところが今度は西武の伊東勤監督が審判団に猛抗議し、実に49分間も試合が中断した。
「当時は“監督の抗議は5分以内”と定められていて、それを過ぎれば退場を命じなければならない決まりでした。それを大幅に超えてしまったので、伊東監督に退場を宣告し、僕も(混乱を招いた責任をとって)辞表を書かなければならないと腹をくくりました」
だが、日本シリーズの舞台で監督を退場にさせたくなかったこともあり、責任審判を務めていた左翼外審の友寄正人から「退場宣告は待て」の指示が出ていたという。そのため、長時間の抗議の末に引き下がった伊東監督に退場は告げられなかった。
試合進行のルールを逸脱したのは事実だが、審判団の総意による判断ということで橘高に責任は及ばなかった。そして、そのシーズンオフも橘高のもとには契約更新の連絡が届いたのだった。
(第2回に続く)
※橘高淳氏の「高」の字は正しくは「はしごだか」。『審判はつらいよ』(小学館新書)より一部抜粋・再構成
【プロフィール】
鵜飼克郎(うかい・よしろう)/1957年、兵庫県生まれ。『週刊ポスト』記者として、スポーツ、社会問題を中心に幅広く取材活動を重ね、特に野球界、角界の深奥に斬り込んだ数々のスクープで話題を集めた。主な著書に金田正一、長嶋茂雄、王貞治ら名選手 人のインタビュー集『巨人V9 50年目の真実』(小学館)、『貴の乱』、『貴乃花「角界追放劇」の全真相』(いずれも宝島社、共著)などがある。プロ野球、サッカー、柔道、大相撲など8競技のベテラン審判員の証言を集めた新刊『審判はつらいよ』(小学館新書)が5月31日に発売。