映画俳優、そして映画監督として活躍し続けている奥田瑛二。俳優を志し上京するも、長い苦節のときを過ごした。それでもくじけることのなかった強い意志と、人気者ではなく役者たらんとした映画作りへのほとばしる思い。その転機と熱い道のりに迫った。【全3回の第2回。第1回から読む】
10代の頃から強い意志と、鋭い感性を持っている人だった。「映画俳優にあこがれたのは小学5年生のとき。大友柳太朗の映画」がきっかけとなった。長じて父親に「俳優になりたいです」と夢を語ったが、愛知県で市議会議員をしていた父からは「たわけ」と一蹴される。大学入学を機に「やっぱり政治家になります、と嘘八百を口にして」上京。形だけは、紹介された政治家の書生となり、議員宿舎で暮らしていたが、一度胸に灯った火は消せない。ますます燃え盛り、大学を中退して飛び出すに至った。
「けれどね、思い通りにいくほど甘くない。ずいぶん長い下積みをしました」(奥田・以下同)
夜の水商売や、船の荷揚げなどの力仕事で食いつないだが、アパートの家賃が払えずに追い出され、「代々木公園で野宿する」日々も経験した。この頃知り合って、食事の面倒をみてくれたのが、のちに結婚することになった、安藤和津さんだった。
やがて30歳を目前に、映画で実力が認められる。その6年後、テレビドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』でブレーク。次々にヒット作に出演し、当時はトレンディー俳優として、多くの女性たちの胸を焦がせた。
しかしあるとき奥田はその座から、ひらりと降りている。
「降りたというより、逃げたんです。人気者という世界からね。このままではただの人気者で終わる。自分が目指していたのは、あの小5のときに抱いたあこがれは、映画俳優だった。それなのにテレビの人気者になって、浮ついている。自問自答を繰り返して、映画に本腰を入れると決めたんです。
決めたからには吠えてやる! と、あるスポーツ紙の取材で『大衆はバカなんですよ、僕はそんなバカの前でいじくられて、俳優という寿命を短くしたくないので、今から大衆から逃げます』ってしゃべった。そしたら翌日にバーンと五段抜きぐらいの見出しになって(笑い)。あの頃は、大宅壮一さんが言った“一億総白痴化”なんていう言葉が、流布していた時代だった。今だったら大問題になるとこだよね」