夢を叶えた途端の焦燥、山で農業をやろうと考えた
「実体のない人気でなく、実のある俳優として、人生を生きたい」──このときが、奥田の俳優人生の分水嶺となったのだろう。その後、映画『海と毒薬』(1986年、熊井啓・監督)で主演をつかむ。遠藤周作の原作をもとにした社会派作品で、軍事下に米軍捕虜を臨床実験するという医学生の、良心の呵責を見事に演じて高い評価を得る。ちなみにここで同医学生を演じていたのが、渡辺謙であった。
「2人で酒をバカスカ飲んで、監督を裏切った芝居をしてやろうとか、燃えてましたね」
やがて映画『棒の哀しみ』(1994年、神代辰巳・監督)で、棒きれのようにしか生きられない、はぐれ者のヤクザを演じて絶賛される。それは彼の中にたまっていただろう、社会の理不尽さに対する怒りや、生きることへの問いかけなどが、噴出した瞬間だっただろう。怒濤のように各映画賞・主演男優賞を総ナメにした。以降、アウトローをはじめ、役の幅は大きく広がっていく。
だが、奥田の中に、またもや焦燥と虚無感が生まれていた。
「13個も主演男優賞をもらっちゃって、俳優としての夢が叶った。ご褒美をもらったというかね。そしたらこれからどうしたらいいんだろう、何をしたらいいのか、わからなくなったんです。1回、人気者からは逃走しているし(笑い)。それで、祠にこもるような感じで、ずっと考え続けました。ほかの世界で生きられるとしたら、八ヶ岳の山麓とか、小淵沢とか、あのあたりに行って農業をやろうとか。
実は俳優として芽が出ず、公園で野宿していたとき、あと1年で売れなかったら、八ヶ岳の麓に行こうと考えたんですよ。それと同じ状況が降りかかった。でも……考えたあげくやっぱり映画の世界からは、絶対に抜けたくない、と思ったんです。だとしたら俳優でなく、映画監督をやろう。監督ならば映画とかかわって死ぬまで生きていけるじゃないかと、奮い立ったんです」
決意したら行動は早い。名のある俳優でありながら、イチ助監督として若手スタッフの現場に入り、一つひとつ基礎を学んだ。
「勉強と同時に、若い監督や出演者が、僕が入ることで育ってくれたらいいという思いもあったんです。相談されると『人の感覚ってこういうときは、こう動くよね』とか、助言したりもしましたね」
すると何かを思い出したように、クスッと笑った。
「そういえば昔、記録(スクリプター)さんから『主演をする人は、そんなさあっと出ちゃダメ。よし、という顔をしてゆっくり出なさい。(石原)裕次郎も(赤木)圭一郎もそうだった』と助言されましてね。でも僕はしない。2年ぐらい前にそのかたに再会することがあって、もう90歳ぐらいだと思うけど『あんたは、ホントに自分勝手な俳優さんだったからね』と言われました(笑い)」
枷を嫌う、いかにも奥田瑛二を物語るエピソードである。