映画俳優、そして映画監督として活躍し続けている奥田瑛二。50歳のときに自身の映画製作会社『ゼロ・ピクチュアズ』を立ち上げ、今年で24年が経とうとしている。現在まで5本の監督作品を世に送り出してきた奥田が、俳優として、監督としての現在地について、そして家族について語る。【全3回の第3回。第1回から読む】
これだけの年月を継続していると、大手映画会社から声をかけられることも増えたという。
「『奥田くん、シナリオを持ってきなさいよ』って、言ってくれる。『あっ、いいんですか』と袋に入れて、専務とか社長の所に持って行くわけですけど、寸前になってやっぱりやめようと、引き返すわけ。ほかのところが絡むと横からいろいろ口を出されたりする。それが嫌なんですね。キャスティングとか、自分の奥田組以外のスタッフが来たりとか。すると、やはり何かがズレるんです。作りたいものと違ってしまったりするから」(奥田・以下同)
創作を生業とする人間としての、矜持を感じさせる言葉だ。一時期、監督に軸足を置こうとしたが、経済的なこともあり、俳優との両輪で生きざるを得なくなった。そのバランスをどのようにとっているのかと尋ねてみる。
「俳優をやめようとしたとき、今後、監督として稚拙なものを作ってしまったら、俳優として築いた奥田瑛二はどうなるのかと、揺れたことも事実なんです。どちらも一緒に倒れることはできないから、絶対に失敗はできないぞとか、葛藤して。また祠に入るみたいにして、考え抜いた。それで映画監督は天職、俳優は適職、という結論に達したわけです。そんな様子を見ているかみさん(安藤和津さん)には、僕の惑いが単純に思えるのでしょう、『もっと大人になりなさい』って、よく言われています」
キャリアを積んだ今、その切り替えもうまくなった。
「最初の3年間ぐらいは、そのつどコンセントを抜いたり差したりしていたんです。監督をするときは俳優のコンセントを抜く、その逆も然り。でもいまはデジタル・スイッチができたというのか、脚本も書きながら俳優の仕事にもスルっと入ることができるようになって、ずいぶんラクになりました」
とはいえ、どっぷり俳優業に身を入れているときは、クランクアップするその日まで、役柄に入り込む姿勢に変わりはない。
「不機嫌な役のときには、家でも不機嫌になっていて、そのあたりはかみさんがいちばんよく知っている。娘たちが幼稚園とか小学校の頃は、『いまね、話してもダメよ』とか言っていたね。そんな親父を見て育ったからか、サクラは真逆でしてね、自分の生き方を持っている。『私はお父さんと違うよ。ハッキリとオン・オフがある。お父さんはずっとオンばかりだから』と」