本書では敬子自身の生い立ちや、彼女が力道山夫人となるまでとなってからが、本人や周囲の証言も交えて、事細かに綴られてゆく。
例えば横浜根岸の実家にサザンオールスターズの原由子一家が一時間借りしていたり、戦後は茅ケ崎署長も務めた父親の名前が火野葦平『麦と兵隊』の中に登場したり。また、先述の赤十字大会で東京都代表の大宅映子氏と親しくなった彼女が外交官を夢見て、国際基督教大学を目指すなど、幾多の偶然が必然を生んでいく過程も面白い。
「結果、大学には落ちて、浪人中に募集を見た日本航空に合格するんですが、大宅映子さんも『彼女の人生を自分が変えたという自覚はあります』と仰っていたし、元々は自分の息子用に手に入れた敬子さんの写真を、息子が他の女性と結婚した途端、〈リキさんにいいんじゃないかしら〉と言い出した森徹(早大→中日、大洋)の母親とか、人生、何がどう転ぶかわかりません。
その曰く言い難い機微や面白さが、僕がノンフィクションを読み、書く理由で、意外な人が意外な働きをしていたりするのも醍醐味のひとつだと思います」
プロレスの歴史を書き換えた一言
東京スポーツに百田敬子名義で載った1975年11月11日付の声明がある。
「それは彼女が力道山十三回忌追善特別大試合の時にアントニオ猪木に出した〈破門状〉ですが、彼女が『それ私は書いてないのよ』と言った時は、さすがに驚きました。プロレスの歴史が書き換えられた瞬間でした」
神様亡き後、アントニオ猪木の新日本プロレスや、ジャイアント馬場の全日本プロレスに分裂していた各団体が一堂に会する12月11日の追善興行を、同じ日に興行が組まれていた新日本は早々に辞退する。