例えば冒頭で人形を描き、〈無機〉を描き得なかった私は思う。〈人形は、椅子に置いてある。キャンバスの中の人形と同じ姿だが、こちらは無機である。キャンバスの中に私が描き出した人形は、生きている〉〈命のないものを、なぜ命がないように描けないのか〉と。
そうした葛藤を知ってか知らずか、20年来の付き合いになる画商の〈吉野〉は定期的に自宅兼アトリエを訪れて絵を持ってゆくが、彼が弄する理屈や口上より数字にしか私の興味はない。
他にもここには家事代行業の女性が交代制で訪れ、モデル達の出入りもあるが、基本は独り。また、趣味で油絵をやっている友人〈村澤〉や若い女性と再婚した〈玉置〉、その結婚パーティで出会った〈蹠から、血を流しているような女〉や、私が定期的に落葉を集めにゆくペンションの経営者で古い友人の〈脇坂〉など、どの関係も縁があるようでないような淡白さなのだ。
そんな私は〈色〉に唯一執着し、森で落葉を蒐集し、これはと思う色を貪欲に追求したかと思うと、庭のバラを切り、28通りの角度からデッサン。それらを1枚の静物画に再構成し、〈一本〉と名付けてほくそ笑んだり、肉屋で注文した頭骨を土に埋め、〈野晒しの骨〉の中に死を見出したりする、表現の鬼でもあった。
〈仮託せずには、描けない。死は、生きている人間にとって、観念でしかないのだ〉〈なにかが、見えたような気がした〉〈私の心か躰のどこかにある、穴〉〈一瞬だけ鮮やかに感じたものは、すでに曖昧になっていた〉〈こんなものか〉〈こんなものだ〉
出会っただけで理由になるから
「落葉の色を蒐集する話やデッサンや骨の話も、全部私の創作、アイデアです。画家の場合、技術は磨けても、色だけは持って生まれた感性から逃れられない。だからこそ彼は色に拘り、それはつまり自分は天才かどうか、問いかけてるってことなんだけど、そもそもその色自体が不確かなものなんですよ。小説を言葉で説明できないように、その絵画や色に説明は必要なく、できるはずもないんです」
〈描くことは、生きること〉と帯にある本書の今一つの見所が食の描写だ。画家崩れの主が営む海辺の食堂で唯一美味かった鯒の造りや、時々寄る和食屋や洋食屋やスナックの端正で気取らない味やサービス。さらには私が作品を描き終えた後に焼き、無心に食らう肉の、何と官能的なこと!