ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その16」をお届けする(第1422回)。
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俗に「あちらを立てればこちらが立たず」という諺がある。政治の世界、いや人間の世界はすべてそれで、たった一つの正解があるなどということは滅多に無い。たとえば「核戦争を引き起こすべきでは無い」というのはたった一つの正解に近いが、それでもここに宗教的対立という「正義」が加味されると、「核兵器を使用してでもイスラエルを(あるいはハマスを)滅ぼすべきだ」という話になるから厄介だ。それでも現代はまだマシなのは、植民地というものが無くなったからである。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領も、NATO(北大西洋条約機構)という軍事同盟が団結してウクライナを支援しなければ、核兵器を使用したかもしれない。彼にとって一番大切なことは、ウクライナが「不当に占拠」しているロシア領を取り返すことで、そのためにウクライナ人が何人死のうと構わない。一方、ロシア兵の戦死はできるだけ抑えたい。それが「正義のすべて」だと考えれば、核兵器使用をためらう理由は無い。
かつてのアメリカのように、「一発(実際は二発だったが)で敵を黙らせる」ために核使用に踏み切った可能性は高いのである。では、なぜ使用しなかったかと言えば、NATOの中核メンバーであるイギリス、フランスそしてアメリカが核保有国であり、核を使えば核で反撃され全面核戦争になる恐れがあるので、現在のところは核兵器の使用を我慢しているだけに過ぎない。このプーチンに核兵器使用を「我慢」させている力を、抑止力という。それが国際政治の法則であり、現実でもある。
と、ここまで書いてきたら、今年四月からTBS系列のニュース情報番組『サンデーモーニング』の担当となった膳場貴子キャスターが、同番組内で「抑止力を高めれば攻撃の標的になるリスクも高まりますよね」という発言をしたという「ニュース」が伝わってきた。私は耳を疑った。個人的には存じ上げないが、この方は一流大学を卒業し報道の経験も何年もあるベテランのはずだ。そんな人が世界では高校生にとっても常識の、初歩の初歩の軍事知識を知らないなどということは、常識的にはあり得ない。
いまロシアの侵略を受けているウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、なぜ躍起になってNATOに加盟しようとしているのか? それは、それが抑止力になって平和が訪れるかもしれないからだ。そしてウクライナ国民がいま心の底で抱いている最大の思いは、「もっと早くに加盟しておけばよかった。そうすればロシアの侵略は無かった」であろう。
そして同じ思いを抱いたればこそ、これまで中立政策を取っていた北欧のスウェーデンもフィンランドもあわててNATOに加盟したのではないか。もし膳場発言が正しいとすれば、スウェーデンもフィンランドもすべて「戦争を招く愚かな国」であり、ゼレンスキー大統領もウクライナ国民も「愚か者」ということになってしまう。
もちろん、現実に対して理想というものは存在する。だが、大変残念ながら理想は現実に対して「役立たず」であることが少なくない。早い話が、プーチンは「平和憲法」を守る義務は無い。「平和憲法」あるいは「憲法第九条」は、なんの抑止力にもならないのである。現実問題として日本を守っている抑止力は、その平和憲法から「排除」されている自衛隊と、日米安保条約である。それが現実だ。理想を抱くなとは言わない。それはご自由であるが、ジャーナリストや歴史家は決してこの現実から目を逸らしてはならない。
現実と言えば、日本はウクライナを侵略しているロシアとの領土問題がある。いわゆる北方四島の問題だが、日本のマスコミはずっとロシアびいき、つまり左翼偏重でこの問題を矮小化しようと努めてきた。