清楚で上品なお嬢様スタイル
語り草となっている駅や飛行場、新幹線の中からの中継はその最たる例だろう。現在ならコンプライアンスの名のもとに自粛しそうなことにも当時のテレビマンたちは果敢に挑戦していた。そんなプロフェッショナルに囲まれて育った彼女は徐々にセルフプロデュース力を発揮。6作目のシングル「楽園のDoor」(1987年)以降は自ら衣装や振り付けを手がけるようになる。
「沢山の先輩アーティストの方を見て学ぶことも多かった。例えば明菜さんは、曲ごとに衣装やメイク、振り付けなど明確なイメージがあったじゃないですか。歌番組でご一緒する機会が多かった私はいち早くそれを知ることができて『今度の新曲はこうなんだ』って毎回ワクワクしていたんです。だから自分もレコーディングのときに曲に合いそうな衣装を考えるようになって」
学生時代から自分で洋服を作っていたこともあった。毎回異なる衣装で視聴者を魅了したナンノは80年代のアイドルにありがちだったフリフリの衣装やミニスカートではなく、清楚で上品なお嬢様スタイルで独自のポジションを確立した。洗練されたセンスはどうやって培われたのか。
「最初に気に入ったのはプレッピースタイル。中学生のときは『miss HERO』という雑誌を読んでいて、アーガイルのチェックや紺ブレなどを着ていました。その後は先輩の影響もあって『Fine』風のサーファーファッションからDCブランドに興味が移り、高校時代は『an・an』や『流行通信』をチェックしていました。とはいえ高校生のお小遣いでブランド物はそう買えませんから自分で作るようになったんです。18歳でデビューした頃、友達は『JJ』や『CanCam』など、いわゆる赤文字雑誌に載っていたりしたけど、同期デビューの人たちはみな15~16歳でしたから、私がそういう女子大生風の格好をするようになったのはしばらく経ってから。曲でいうと『涙はどこへいったの』(1989年)の頃からですね」
80年代の歌唱映像を観て驚くのは時代を感じさせないビジュアルだったこと。女性の場合は流行の移り変わりが大きく、特にバブル期のファッションは今観ると古臭く感じられるが、彼女に関してはそれがない。
「最先端を追わなかったからだと思います。『トラブル・メーカー』(1989年)ではあえて肩パッド入りのスーツを着ましたけど、それ以外は流行を追うより自分に合うものを選んでいたと思う。メイクもあの頃流行っていた赤いアイシャドウやピンク系のマットリップは使わなかったし、太眉にもしませんでした」