2024年は“戦後のヒーロー”力道山生誕100周年のメモリアルイヤー。様々なメディアで生前の功績にスポットライトが当てられているが、亡くなった「その後」についてはあまり語られていない。
「つきましては奥様に社長をやっていただくことになります」──力道山の妻・田中敬子さんは葬式を終えるとすぐに夫の遺した会社の相続という難題を突きつけられた。果たして彼女が選んだ選択は…ノンフィクション作家・細田昌志氏の新刊『力道山未亡人』ではその知られざる全容が明かされている。(前後編の前編)
* * *
本葬を終えて一息つく間もなく、午後六時からリキ・スポーツパレスで「力道山追悼興行」が行われた。本来なら、日本プロレスの年内最終興行が行われる予定だったが、追悼興行にシフトしたのである。
追悼セレモニーでは、日本プロレス協会会長の楢橋渡が弔辞を読み、未亡人の百田敬子が遺影を持ってリング中央に立つと、追悼のカウントが打ち鳴らされた。メインイベントでは、新エースの豊登が、キラー・バディ・オースチンと三十分一本勝負で対戦した。すくい投げ、抱え投げと相撲殺法でオースチンを攻めまくり、さらに、レフェリーの制止も聞かずオースチンの首をロープに挟んで滅多打ちにすると、レフェリーの沖識名は反則負けを言い渡したが、満員の観客はやんやの喝采を送った。
試合後、豊登と並んで報道陣に囲まれた敬子は「主人も再出発を心から喜んでいると思います」とコメントしている。ようやく、敬子はすべてのスケジュールから解放された。力道山が刺された十二月八日から追悼興行を終えた十二月二十日まで、暴風雨のような十二日間が幕を閉じたのだ。
敬子の身辺は静かになるはずだった。そうでなくても、春には出産を控えている。しばらくは、そっとしておいてほしい。敬子はそう願った。しかし、そうはいかなかった。