未亡人社長になる
ようやく、敬子はすべてのスケジュールから解放された。力道山が刺された一九六三年十二月八日から追悼興行を終えた十二月二十日まで、暴風雨のような十二日間が幕を閉じたのだ。
敬子の身辺は静かになるはずだった。そうでなくても、春には出産を控えている。しばらくは、そっとしておいてほしい。敬子はそう願った。しかし、そうはいかなかった。
年が明けて一九六四年一月四日、リキグループの顧問弁護士である佐瀬昌三が、赤坂の自宅に姿を見せた。佐瀬は事務的に、こう切り出した。
「つきましては、奥様に社長をやっていただくことになります」
「え、私がですか」
「ええ、グループすべての会社の代表取締役になっていただきます」
敬子は驚いた。これまで、日本航空のスチュワーデスをやっていたというだけで、会社経営など、まったく経験がないのだ。
そもそも、結婚半年で未亡人になるのも異例なら、亡夫の会社を継いで社長になるというのも異例中の異例である。それに、七カ月の身重である。予定日は三月中旬。どうして、それで会社経営など出来ようか。その上、五つもの会社の社長に就任するとは正気の沙汰ではない。生前の力道山の殺人的な忙しさが脳裏に甦った。
ああいう離れ業が今の自分に出来るはずがない。固辞する以外に選択肢はない。
「無理です。到底つとまるはずがないです」
(後編に続く)