手についた「ぎょうさんの傷」
徳田氏の進撃を陰で支えたのが徳洲会に集まった全共闘世代の医師たちだった。彼らはボス教授が頂点に立ち、助教授(准教授)、講師、助手を従えて「医局」を支配する大学医学部を変革しようと激しい闘争をした経験を持つ。長いものに巻かれず、戦いの炎を絶やさなかった医師たちが徳洲会に集まった。
その中心にいたのが盛岡氏だった。ときには、徳田氏を支えるために裏社会を相手に危ない橋も渡った。盛岡氏は、徳田氏と同じ徳之島の出身で、京都大学医学部を卒業し、精神医療の改革に打ち込んだ。その後、アメリカのボストン小児病院で2年間、客員研究員を務め、1981年に帰国すると徳田氏の訪問を受けた。盛岡氏は、徳田氏との出会いをこうふり返る。
「もの凄いバイタリティを感じましたね。一緒に医療改革をやろう、日本中、世界中に病院をつくって医療を変えたい、そのためには政治力も持たないとやっていけない。ゆくゆくは、俺はノーベル賞を取って、世界大統領になるつもりや、と彼は言った。僕は、徳田先生、あなたからはヒトラーか織田信長を連想しますよ、と申し上げたんです」
すると徳田氏は、盛岡氏にこう吐露したという。
「ぼくの手には、ほれ、ぎょうさん傷があるやろ。草刈り鎌でついた傷や。小学3年から毎日、牛の餌にする草を刈った。痛くても、疲れても休まなかった。ぼくは頭が悪いから大学受験の勉強も生きるか、死ぬかやった。病院づくりも苦しみの連続や。苦しい状況に追い込まれたら、いつもそっと傷痕に触ってみる。徳之島の怒り、悲しみを忘れるな、がんばれと傷はぼくを奮い立たせてくれるんや。こんな傷だらけの手を持つ、貧乏人上がりの人間が、きみ、ヒトラーなんかにはなれんよ」
盛岡氏は、ヒトラーも世のため、人のためと言いながら国民を狂気の戦争に引きずり込んだのではないか、と思いつつ、医療改革の運動体である徳洲会に人生をかけようと入職した。盛岡氏は採算が悪化した病院を立て直す。いまや徳洲会グループの旗艦病院に成長し、徳田氏が長い入院生活を送った「湘南鎌倉総合病院」は、盛岡氏が鎌倉市や神奈川県に水面下で働きかけ、「個人病院」として開設したところから始まっている。