医療法人「徳洲会」の創設者で、元衆議院議員の徳田虎雄氏が7月10日の夜、神奈川県内の病院で亡くなった。享年86。その人生に迫る評伝『ゴッドドクター 徳田虎雄』の著者でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏が、徳田氏の「医療に革命を起こす意思」を振り返り、追悼を寄せた。
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徳洲会の創設者、徳田虎雄氏の訃報をメディアが伝えるよりも早く、7月11日の未明に一通のメールが送られてきた。訃報を筆者に知らせてくれたのは、徳洲会のナンバーツーとして十数年間、徳洲会の運営に携わった盛岡正博氏(現・佐久大学理事長)だった。短い文面だったが、ポッカリと心に穴があいたような寂しさが漂ってきた。
徳洲会は、傘下に76の病院と、診療所や介護事業所など300以上の施設を抱える日本最大の民間病院グループだ。職員数は約4万人、年商は5300億円を超える。救急医療の地域への貢献度は高く、1月に能登半島地震が発生した直後、被害が大きな輪島市にまっさきに駆けつけた医療支援チームは「TMAT(Tokushukai Medical Assistance Team)」だった。
この巨大な医療インフラを一代で築いた徳田氏が、7月10日の夜、逝去した。86歳だった。64歳でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、身体が動かなくなり、声は出ず、瞼を開ける力も衰えて寝たきりだったことを思えば、ようやく楽になれたかな、とも感じる。
すでに多くのメディアに追悼記事や、人物評が掲載されているが、徳田氏を医療の「善」と政治の舞台裏での「悪」の二分法で語り、相変わらず「異端者」扱いしているようだ。
しかし、人間の行動は、善か悪か、白か黒か、単純に分けられるものではない。白とも黒ともつかない領域が重なり合って人は生きている。
鹿児島県の奄美群島の徳之島で育った徳田氏が医師を志した根底には「怒り」があった。
虎雄少年が、小学3年のとき、粗末な藁ぶきの家のなかで、3歳の弟が激しい嘔吐と下痢をくり返し、衰弱した。虎雄少年は、夜中に母に「お医者さんを呼んできて」と頼まれる。真っ暗な山道を2キロも駆けて医者に往診を頼みに行くが、貧しくて来てもらえず、弟は死んだ。虎雄少年は悔しさと怒りに包まれる。
〈医者は急病のときに患者を診ないといけない。医者は患者を診るためにあるもので、どういう人でも助けるのが医者のはずだ。私は医者になったら、困っている人をできるだけ助けるんだと、そのとき子ども心に決心した〉と自伝『生命だけは平等だ―わが徳洲会の戦い』に記している。
徳田氏は、怒りをバネに医者になる。大阪大学医学部を卒業すると、自分の生命保険金を担保に、大阪府松原市のキャベツ畑だった土地を購入し、1973年に「徳田病院」を開く。間を開けず、「徳洲会病院」を次々に設立していった。
その原動力は、医療に革命を起こそうとする意志だった。
徳洲会が急速に病院を増やした1970~80年代、日本の医療は腐っていた。
開業医は「患者が医者の都合に合わせて当然」と休日や夜間の急病人を診なかった。大学病院も、医師や看護師の負担が大きい救急患者を受け入れない。都道府県医師会を統率する「日本医師会」は、国会議員と厚生省(現・厚生労働省)の官僚を相手に医師の人件費に当たる診療報酬の引き上げ運動に明け暮れる。
厚生省は、医師会に屈して1974年2月には診療報酬を平均19%も引き上げたが、国民が望む救急医療には十分な報酬をつけず、採算がとれないまま放置した。そのツケは患者に回される。全国各地で、救急車が患者の受け入れ先を見つけられず、立ち往生した。患者がたらい回しにされている間に命を落とすことも珍しくなかった。
そうした状況に、徳田氏は「(この世には貧富の格差や差別はあるが)生命だけは平等だ」「年中無休、24時間診療」と声を張り上げ、関西、九州・沖縄、関東などの「医療沙漠」と呼ばれる無医地区に病院を建てていく。
徳洲会が進出する地域の医師会は、“メシのタネ”である患者を奪われると怯え、自治体に圧力をかけてその計画を潰そうとした。だが、地域の住民は医療を渇望しており、徳洲会は民意を受けて病院の建設用地を確保する。各地で医師会と激闘をくり広げた。