佐藤愛子さんのベストセラーエッセイ『九十歳。何がめでたい』が映画化され、大ヒット中だ。80代や90代のスーパーシニアの新しい客層を掘り起こし、客席では“シニアあるある”に共感し、あちらこちらから笑いが起きているという。
断筆宣言をして鬱々と暮らす愛子(草笛光子)の元へ編集者の吉川(唐沢寿明)が押しかけ、ぶつかり合う2人の化学反応が新たな人生の扉を開く。そんな本作の舞台の中心となるのは、愛子が暮らす邸宅だ。
外観はハウススタジオでロケをしたが、内観はセットを設営。佐藤さんの家を訪れたことのある各社編集者が口を揃えて「本物のご自宅にそっくり」と映画を観て驚いた、そんな空間で撮影された。似ているだけではない、「佐藤愛子の世界観」が貫かれたセットは居心地がよく、“家主”である草笛さんが撮影中に「ここに泊まりたい」と漏らしたほど。
その世界観を見事に作り上げたのが美術デザイナーの安藤真人さんだ。
「ご自宅に入って“映画のワンシーンのような美しい光彩に包まれた空間だな”と心が震えたんです。その空気感を損なわずに映画の佐藤愛子邸を形にしました」(安藤さん・以下同)
監督が思い描く空間を具現化するのが美術の役割だが、制作過程では異論を唱えることもある。
「初期のホン(台本)ではリビングにこたつがあって内装は古民家のイメージでした。ですが外観を想像すると、古民家ではどうもピンとこなくて……」
翻意を促すために“本物”を提示しようと考えた。
「実際の建物を見なければ監督も納得されない。そう思い、まずは佐藤先生のお宅の外観を知ろうと調べたんです。つてを辿って場所を探し、ひとりで密かに視察に出掛けました」
その熱量が天に通じたのか、正式なロケハンとして後日、監督と佐藤邸を訪れる流れに。1時間半ほどかけて、全室を隈なく見学した。各部屋のサイズを測り、壁の状態や天井の高さなど、空間を構成する要素を把握。本物に触れた結果、古民家案から脱して室内セットも佐藤邸に寄せて作られることになった。
「ぼくはセットの間取りや色やサイズといった大枠の方針を決める責任がありますが、実務にあたるのは美術部の各部署です。
ご自宅で受けたあの感動をどう伝えたら、空間として再現できるのか。人数が限られ、監督と自分しか家へ入れなかったため、実際に見ていない美術チームにどうイメージを伝えるかが最大の課題でした。たくさん撮った写真を共有し、どうすれば肌感覚として空気感が伝わるか言葉選びにも腐心しました」
安藤さんはセットの平面図や立体図も起こした。
「撮影の都合で実際の間取りとまったく同じにはできませんが、監督の意向で各部屋のサイズ感はほぼ実寸で設計。最終的に現場で少し広げましたが、大きくは変わりません。
間取りが違うぶん、調度品や絵画など装飾面でご自宅の雰囲気を再現。居間で過ごすリクライニングチェアやキーアイテムとなる電話など、ご自宅で愛用されている実物とそっくりなものを集めました。壁の質感や塗装、木地の色、ポイントで配した縦格子の意匠など、細部までオリジナルを踏襲してリアリティーを追求しました」