「夫と妻の意見不一致」
では、この稿は日本史なのになぜモンゴル史をこのように記述しているのか? もうお忘れになったかもしれないので(笑)あらためて注意を喚起しておくと、現在の主題は辛亥革命の始まり(1911)から五年後の一九一六年(大正5)に第二次大隈重信内閣がいかにして崩壊したか、である。時系列をたどると、一九一四年に第一次世界大戦が勃発し、大隈内閣は「日英同盟のよしみ」でこれに参戦した。
日本は中華民国・膠州湾にあったドイツの拠点青島を攻略占領し、袁世凱に「対華二十一箇条の要求」を突き付けた。それは新聞に繰り返し煽動されて、対中国強硬路線を望んでいた国民の熱い支持を得た。だが、この先一転して大隈内閣は崩壊に向かう。そのきっかけが「第二次満蒙独立計画」の失敗だったのだ。
これも計画自体が失敗したというよりは、日本つまり大隈内閣のこの問題への関与の仕方がまずかったと評価すべきなのだが、そもそもそうした評価を論じるためには「満蒙独立運動とはなにか」「蒙古と現在のモンゴル国とどこが違うのか」「遊牧民に関してはどんなことを常識として知っていなければならないか」などを述べる必要があった。
あらためて満蒙独立運動について述べれば、満洲族とモンゴル人それも清朝に協力的な内モンゴル人が一体となって、一度は滅んだ清朝を再興する。それを日本が強力に援助することによって、再興された「新・清国」に強い影響力を持つような形を作り上げることだ。そうすれば、この当時の対中国外交の最大の懸案であった「南満洲利権の延長問題」も簡単に解決することになる。
ところが、大陸浪人川島浪速と清朝皇族粛親王善耆が画策したこの動きを、「第一次満蒙独立運動」「第二次満蒙独立運動」という流れでとらえるべきでは無い、という見方もある。というのは、粛親王善耆の妹善坤の夫グンサンノルブは、たしかに「内モンゴル独立」をめざしていたが、善耆や善坤にとってはあくまで「清王朝の再興」が目的であり、それを抜きにしての内モンゴル独立はあり得ないからだ。つまり、グンサンノルブの内モンゴル独立運動失敗のもう一つの原因は、「夫と妻の意見不一致」だったと考えられるのである。
辛亥革命勃発時、陸軍参謀本部は川島浪速の提言により善耆の身柄を保護したこともあった。しかし、結局は川島と善耆およびグンサンノルブへのバックアップを中止した。なぜか? これが「プランB」だったからだろう。アメリカのアクションドラマなどでよく使われる言葉だが、「本命」の計画がうまくいかなかったときの、予備のプランである。戦争で言えば、勝つつもりが負けたときの対応策である。
本来、参謀本部というのは常にそういうことを考えておかねばならない。全体のプランニングを考えるのが参謀本部の仕事であるし、人間のやることには必ず失敗がつきものだからだ。もっともこの時代から昭和二十年までの日本の歴史は、参謀本部がそうした本来の機能を失い、天皇の御稜威(霊力)に守られた不敗の軍隊という驕りが生まれ、「プランB」を考えない組織になっていくというものだが、辛亥革命当時の陸軍参謀本部はそこまで硬直した組織にはなっていない。
日本にとって最良と言える結果は、日本びいきの孫文が主導権を握った民主国家が清国に代わって誕生することだった。しかし、孫文は戦争が下手で彼の指導する革命は何度も失敗した。今回は「袁世凱の革命派への寝返り」もあって成功する可能性は高かったが、それでもうまくいかなかったときのことは考えておかねばならない。それがプランB、つまり革命政権が日本の望む形で成立しない場合、逆に清朝を日本の力で再興させ、あわせて内モンゴルも独立させ思いどおりにするというものだった。