ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その4」をお届けする(第1427回)。
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ここで内モンゴルのハラチン(カラチン。中国語表記は「喀喇沁」)右旗の長であったグンサンノルブが、一九〇六年(明治39)に日本の実践女学校に留学させた女子学生三名の名前を記しておこう。中国名はそれぞれ「恵貞(何慧貞)」「保貞(于保貞)」「淑貞(金淑貞)」であり、「カラチン右旗王府重臣の娘たちであった」(『1906年におけるモンゴル人学生の日本留学』横田素子中国・内蒙古大学客員教授著 『和光大学総合文化研究所年報「東西南北」2009』所収)。
「ハラチン」と「カラチン」の「ハ」と「カ」の違いは発音の問題である。ちなみに、男子留学生はいなかったのかと言えば、もちろんいたが来日は女子よりも数か月あとだった。儒教の影響が強かった東アジアでは、きわめて珍しい事例と言えるのではないか。
グンサンノルブは、このようにして日本との絆を固めていった。これ以後の彼の行動を見ると、清国が健在であるあいだは清国の支配下にある内モンゴルの王侯貴族として忠節を尽くすが、その忠節の対象である清国が滅んでしまえば、もともとは漢民族とも満洲族とも違うモンゴル人は、当時世界的に流行していた民族自決の道を歩んでもいいという態度だ。
具体的に言えば、内モンゴルの「旗」そして「盟」をあらゆる手段でまとめて清国から独立すべきだということで、その場合は外モンゴルと一体になる可能性もある。もともと同じ民族だからだ。「大モンゴル主義」である。
一方、日本にとってもグンサンノルブの「モンゴル独立運動」を支持する価値はあった。と言うのは、グンサンノルブの「領地」であったハラチン右旗(これはあくまで「地名」であることに注意)は、「内蒙古を南北に貫く熱河大道の要衝で、露国運輸動脈の要所チチハルを北にしており、露国にとっては側面を守るためにも背面に備えるためにも重要な地区」(引用前掲論文)であったからだ。
では、具体的な場所はどこであったのかと言えば、現在の中華人民共和国内モンゴル自治区の赤峰市の南西にある、錦山鎮(人民政府の拠点)あたりに王府があったようだ。万里の長城のすぐ外側である。ここが日本の勢力下に入れば、それまでまったく日本の力が及ばなかった内モンゴルに楔を打ち込むことができる。
しかし、その試みは結局失敗した。
まず、清国が崩壊し清王朝が滅亡したことを「内モンゴル人」は絶好のチャンスとはとらえなかったことだ。前回、司馬遼太郎の見解を紹介したが、中原を支配し「中国人」となった満洲族は元遊牧民で、遊牧民の恐ろしさを知っていたこともあるだろう。漢民族以上にモンゴル民族を警戒し、とくに内モンゴル人に対してはあらゆる弾圧、分断、懐柔の限りを尽くした。
その結果、「誇り高いモンゴル人」が満洲族の鼻息を窺うようになってしまった。だから、民族意識に目覚めたグンサンノルブがいくら呼びかけても、内モンゴル人は彼の下で一つにはならなかった。グンサンノルブ自体のリーダーシップも不足していた。それは彼が日本における室町幕府の創設者足利尊氏のように、ほかの大名を飛び越える身分では無く、いわば「同輩」であったからだ。
「なぜ、お前の下につかなければならないのだ」と考える旗長が少なからずいたということだ。この点、足利尊氏は戦争に勝つことにより新田義貞のようなライバルを排除したが、グンサンノルブにはそれができなかった。できなかった理由はいくつかあるが、最大の理由は日本が武器援助を中止したからだ。その理由については後で述べるとして、グンサンノルブは女子教育を重視したことでもわかるように、どちらかというと文人肌でチンギス・ハンや尊氏のような武闘派では無かったこともある。