ウッチャンナンチャンの内村光良(60)は、コント師として一線に立ち続け、今も多くの芸人仲間や後輩から慕われる存在だ。還暦を迎えた今年は、19年ぶりにかつての冠番組『内村プロデュース』(テレビ朝日系=9月28日放送)が特番で復活し、錚々たる芸人が出演して祝福した。なぜ内村は今日の地位を築くことができたのか。その源流をノンフィクションライターの中村計氏がレポートする。(文中敬称略)
「ライター貸してくれる?」
常に百円ライターを2つ持ち歩いている。そんな妙な癖がついてしまったのはウッチャンナンチャンの内村のせいだと話すのは、後輩の漫才師・笑組のゆたかだ。
1986年から毎月1度、渋谷で開催されている若手の修行の舞台「ラ・ママ新人コント大会」の楽屋での出来事だ。ラ・ママの楽屋は中央に大きな机があり、その机を取り囲むように四方の壁際に椅子が並んでいた。ゆたかと内村はもっとも隣接する一辺の端っこの椅子にそれぞれが腰掛けていた。斜めすぐ前に互いを感じる距離だ。
笑組は2005年までウンナンと同じマセキ芸能社に所属していた。ゆたかは内村の相方である南原清隆とは頻繁にコミュニケーションを取っていたものの、内村に自分から話しかけたことは一度もないと話す。
「内村さんはみんながいても1人で大人しくしていることの方が多かった。怖いわけではないんですけど、近寄りがたい雰囲気はありましたね」
ゆたかは内村と言葉を交わした記憶は数回しかない。そのうちの1回が、ラ・ママの楽屋でたまたま隣り合わせになったときだった。ゆたかは仲間内では「ゆた」と呼ばれている。
「ゆた、ライター貸してくれる?」
ゆたかは慌ててライターを取り出し、内村の顔の前で火を点そうとした。しかし内村に制され、代わりに差し出された手のひらの上にライターを置いた。すると内村はタバコに火をつけ、何事もなかったかのようにライターを自分のシャツの胸ポケットに収めた。ゆたかが回想する。
「ネタのことを考えていたんでしょうね。頭がいっぱいだったんだと思います。返してくれとも言えないじゃないですか。百円ライターでしたし。ただ、それ以降、何が起こるかわからないと思って、いつでもライターを2つ持ち歩くようになっちゃったんです」