もっとも政党内閣では無いので、寺内の容姿がアメリカのビリケン人形に似ていることもあって寺内内閣はビリケン内閣と揶揄された。「非立憲(びりけん)」ということだ。
さて、この年、注目すべき事件がいくつかあったのでそれに触れておこう。まず、日本において社会主義が徐々に浸透してきたことを示す二つの出来事で、一つは寺内内閣成立のちょうど一か月ほど前の九月に、河上肇が『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』の連載を始めたことである。
河上肇は一八七九年(明治12)、山口県岩国に生まれ、東京帝国大学を卒業した。当初は理科系の講師として活動していたが次第に経済学に関心が移り、マルクス経済学の強い影響を受けた。出世作となった『貧乏物語』は資本主義社会が必然的に生み出す格差と貧困の問題を追究したものだが、このあと河上は最終的にこの問題を解決するにはマルクス主義しか無いと思い定め、日本共産党に入党し共産主義者として活動。治安維持法違反で投獄されたが転向はせず、一九四六年(昭和21)に病死した。共産主義あるいは社会主義の活動家は、一般人から見ると近寄りがたい雰囲気があったのは事実だが、河上はそうした人々の警戒感を解き社会主義思想の普及におおいに尽くした。
ちなみに、『朝日新聞』はそもそも一八七九年(明治12)に大阪で創刊された。その後一八八八年(明治21)に東京にも進出し、その新聞は『東京朝日新聞』と銘打たれたが、大阪で発行される新聞はその後もしばらく『朝日新聞』のままだった。「こちらが本家」という意識だろうか、しかし一八八九年(明治22)に「本家」も『大阪朝日新聞』と改称した。
昔は交通も通信もいまよりはるかに便が悪く、いまではあたり前の全国紙(第一面が東京でも大阪でも同じ)とすることが非常に難しかった。メールどころかファクスも無い。電信と電話という大量に情報を送るには不向きな手段しか無かった。そのため、東京と大阪では「編集が違う」ということを明示する必要があったのだろう。
人類史を変えた重大事件
河上肇が『貧乏物語』の連載を始めた大正五年九月には、日蔭茶屋事件が起きた。これは登場人物の大杉栄、伊藤野枝、神近市子の来歴がわからないと理解できないので、まずはそれを簡単に紹介しよう。
〈おおすぎ-さかえ〔おほすぎ-〕【大杉栄】
[1885-1923]社会運動家。香川の生まれ。東京外国語学校在学中から平民社に参加。第一次大戦後、無政府主義運動を進めた。関東大震災直後、妻伊藤野枝、甥とともに憲兵大尉甘粕正彦に虐殺された。著「自叙伝」。
いとう-のえ【伊藤野枝】
[1895-1923]婦人運動家。福岡の生まれ。平塚らいてうらの青鞜社に加わり、婦人解放運動に参加。大杉栄と結婚し、夫とともにアナーキズム運動に従事。大正12年(1923)の関東大震災直後、憲兵の甘粕(あまかす)大尉に夫らとともに殺された。〉
(以上、いずれも『デジタル大辞泉』小学館)
〈神近市子 かみちか-いちこ 1888-1981
大正-昭和時代の女性運動家、政治家。
明治21年6月6日生まれ。女子英学塾(現津田塾大)在学中に青鞜社に参加し、大正3年東京日日新聞記者となる。5年恋愛関係のもつれから大杉栄を刺傷、服役。のち「女人芸術」などで文筆・評論活動をおこなう。昭和28年衆議院議員(当選5回、社会党)。売春防止法の成立に尽力した。昭和56年8月1日死去。93歳。長崎県出身。本名はイチ。〉
(『日本人名大事典』講談社刊)
神近市子の経歴のなかに「5年恋愛関係のもつれから大杉栄を刺傷」とあるのが、日蔭茶屋事件のことだ。そもそも大杉栄は、社会主義をとおり越して無政府主義までいってしまった人物だから、既成のモラルに束縛されることをおおいに嫌っており、しかもいわゆるイケメンだった。そして、伊藤も神近もともに青鞜社に参加するぐらいだから「新しき女」であり、恋愛至上主義者だった。