父・清原和博に近づくということ
正吾が普通部(中学)に進学するタイミングで野球から離れたのは、当然ながら6年生の時の両親の離婚や、父の薬物騒動と無関係ではない。
当時の一家の様子を証言するのは、清原兄弟が慶應幼稚舎(小学校)時代に所属した軟式野球チーム「オール麻布」の代表・福住高志(当時はヘッドコーチ)だ。正吾と福住の次男は、6年間クラス替えのない幼稚舎の幼なじみで、家族ぐるみの付き合いは現在も続く。
「母親の亜希さんは子供たちの生活を守ることに必死だった。清原さん=野球ですよね。正吾が野球をやることは父親に近づくということですから、一家を知る者はみな共通の意識として、正吾を野球というスポーツに近づけたくなかった」
喧騒のなか、正吾は野球から離れ、まだ小さかった3歳下の弟・勝児はオール麻布で野球を続けた。福住が続ける。
「亜希さんは、チームや相手チームに迷惑をかけることをすごく嫌がる方。だからこそ、勝児が野球をやることも反対した時期はあったと思います」
事件を機に崩れた関係に変化があったとするなら、父子の“再会”だ。ある時、正吾は弟からバッティングの意見を求められた。しかし、野球から離れていた正吾に、弟に役立つようなアドバイスは送れなかった。
清原家では父のことを「アパッチ」と呼んでいた。正吾の「アパッチに相談してみたら?」という一言がきっかけで、父が勝児の指導を再開することになったのだ。一家が練習場所に選んだのが、福住が運営する屋内練習施設「ベースランド」だった。