ギラギラと光る目
映画会社を渡り歩いた文太が“外様”の俳優として東映に移籍したのは、34歳の秋だった。
最初の出演作は『網走番外地 吹雪の斗争』(1967年、石井輝男監督)。主演の高倉健は鶴田浩二と共に東映を代表する看板スターだが、文太より2歳上の同世代。大映の市川雷蔵、勝新太郎も高倉と同い年で、日活の石原裕次郎は文太より1歳下。同世代のスターが綺羅星の如く存在していた。
下積みが続いていた文太に焦りがなかったといえば嘘になるだろう。
親しい新聞記者に「やっぱり、役者は上に行かないと寂しいよなぁ」と本音を漏らしている。
そんな文太にチャンスが訪れたのは、移籍から2年後のことで、『現代やくざ 与太者の掟』(1969年、降旗康男監督)の主役に抜擢されたのだ。
この映画をはじめに、主演作が続き、深作欣二監督、中島貞夫監督、鈴木則文監督らの作品にも多数出演する。3人の監督に共通していたのは、撮影所を歩く文太のギラギラと光る目に飢えを感じ、それを俳優としての魅力と捉えたことである。
文太の台頭と重なるように、東映も大きな転換期を迎えていた。
1971年8月大川博社長が亡くなり、後継者として、岡田茂が就任する。続いて同秋には藤純子(現在は富司)の引退が発表され、全盛を誇った任侠映画の翳りが顕著になってくる。だが、任侠路線に乗るには遅かった文太は新たな活路を見出す。
深作と組んだ実録路線『仁義なき戦い』である。
映画の1作目から広能を悩ませ、抗争の原因ともなる山守組長は金子信雄が演じている。ずる賢く、小心で、変わり身が早いキャラクターで、深作は金子の演技を見て「こんな親分が本当にいるのか、と不安が付きまとっていた」という。