菅原文太さんの死から10年が過ぎた。『仁義なき戦い』などのヤクザ映画で人々を虜にした昭和の名優を、評伝『飢餓俳優 菅原文太伝』著者の松田美智子氏が振り返る。(文中敬称略)
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「山守さん、弾はまだ残っとるがよぅ」
印象的な決め台詞がある映画は伝説となり、語り継がれる。
残った弾を撃つのか、撃たないのか……。
後世に残る名台詞を書いた脚本家の笠原和夫は、余韻を持たせたまま『仁義なき戦い』を完結させようとした。
だが、1973年1月の公開から時を置かず、東映は続編の製作を決定。さらにシリーズ化し、主役の広能昌三を演じた菅原文太の名前を広く世に知らしめることになった。
ここに至るまでの文太は、遍歴の人だった。
俳優人生のスタートは、スカウトされて入った新東宝で、モデル出身の容姿を見込まれたのだが、鳴かず飛ばずで、3年後には会社が倒産するという憂き目に遭う。
移籍先は松竹で、在籍した6年の間に、30本近い作品に出演している。ようやく俳優業に目覚めたのも、この頃だったが、32歳にして運命的な出会いを果たす。『血と掟』(1965年、湯浅浪男監督)で共演した安藤昇である。以後の文太は、安藤が経営する青山のレストランに通い、プライベートな相談を持ち掛けるようになった。出会いから2年後、安藤が東映の俊藤浩滋プロデューサーに引き抜かれたのをきっかけに、文太もまた、東映への移籍を決める。初めて東映京都撮影所に足を踏み入れた時、「こここそが、俺の生きる場所だと直感した」という。