ポイントはおわかりだろう。まずセミョーノフだが、彼は「日本軍の支援のもとにザバイカル州に反革命地方政権を樹立」した。つまり、「山県の夢」はこの時点で「正夢」となったのだ。そればかりでは無い。コルチャークに至っては「イギリスの後援をえてシベリアに乗り込み、(中略)軍事独裁体制をウラル以東のほぼ全域に樹立」したのだ。
このとき、イギリスでロイド・ジョージ内閣の戦争大臣としてコルチャークを強力に支援したのが、後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチルだった。チャーチルが白軍に対して行なった金銭的支援は、一説には一億ポンドを超える膨大なものだったという。なぜ、チャーチルはそこまで白軍に肩入れしたのか? あまり納得のいく説明を聞いたことは無いのだが、思うにチャーチルという政治家は危険に対する「動物的な嗅覚」を持つ政治家だったのではないだろうか。
第一次世界大戦後のドイツにまさに「救世主」として出現したアドルフ・ヒトラーについても、多くの政治家がその正体を見誤るなかでチャーチルだけがその危険性を早くから説いていた。ナチズムと同じく共産主義にも、そうした危うさをチャーチルは感じ取っていたのではなかったか。そうした嗅覚を持っていたチャーチルが、強敵日本とヒトラーを倒すためとは言え、共産主義の悪を体現したヨシフ・スターリンと同盟を結ぶことになり、戦争に勝ったのはいいが大英帝国の解体者とならざるを得なかったのだから歴史というのは、きわめて皮肉な一面も持っている。
「頭目」と「提督」の対立
とにかく、コルチャークはイギリスが主導した形の「新ロシア帝国建国」に一時成功し、セミョーノフも日本の夢であったシベリアの一部(ザバイカル州)確保に成功したのだから英仏日米の「共同事業シベリア出兵」(欧米ではこれを「対ソ干渉戦争」と呼ぶ)は、全体として途中までは大成功だったのである。それがなぜ最終的には大失敗に終わったのか。
二人の経歴のなかにヒントがある。
セミョーノフとコルチャークは最後まで反目し、共闘するどころか対立していたのだ。敵の赤軍すなわちソビエト共産党には、カリスマ的リーダーのウラジーミル・レーニンを筆頭に軍事部門にはきわめて優秀なレフ・トロツキーがいた。赤軍が白軍に勝利できたのはトロツキーの戦争指導の巧みさによる、というのは誰もが認めるところである。
赤軍には、なによりも一枚岩の団結がある。革命とは人民が一致団結しなければできない。それだけでは無い、革命とはそもそも政治改革である。通常の政治改革とは違って、軍事力で一気呵成に反対派を殲滅し政権を奪取して実行するところが違うが、政治改革であること自体は間違いない。だから当然、革命を成功させた軍事部門だけで無く、行政部門も充実していた。税制改革や身分制度の撤廃など庶民が歓呼の声をもって迎えた政策が、共産党の手によって実行されていた。
ところが白軍はどうか? 文字どおり白軍は「軍隊」であって、「政党」では無い。当然、占領した地域をどのように維持するか、人民を新国家の国民として、どのように処遇するかについて、なんのビジョンも無かった。そもそも、それを担当する部門すら無い。ゆえに「苛酷な軍事独裁体制」を敷くしかなかった。「黙って従え、逆らえば殺す」である。これでは人民の支持が得られるわけが無い。このうえにセミョーノフとコルチャーク、つまり「独裁者同士の対立」があったのだから、白軍が最終的な勝利を収める可能性は、じつはほとんど無かったのである。
では、ここでなぜ両者は対立したのか、あらためて考えてみよう。もちろん日本とイギリスという「応援団の違い」はあるのだが、それが根本では無い。日英ともに支援目的は一致しているのだ。やはり問題は、コサックの頭目とロシア海軍提督という立場の違い、いや平民と貴族という身分の違いにあったのだろう。
とくにコルチャークにとってセミョーノフは、山賊の親玉みたいなものだ。頭を下げるなど論外で、対等なパートナーにするのも抵抗がある。一方、独立心の強いコサック上がりのセミョーノフにとって、コルチャークは貴族出身を鼻にかける尊大な男だったろう。「部下にしてやる」と言われても頭など下げたくないし、自分は日本の支援の下で「ザバイカル王」としてじゅうぶんにやっていける、という自信もあったろう。