気を取り直して本題に戻ろう。米騒動はいかにして解決されたのか?
寺内内閣は暴動が首都東京市に及んだ八月、あわてて天皇からの恩賜金という名目で三百万円を府県に分配した。さらに一千万円を米価対策に投入し、コメの廉売を奨励した。これで騒動自体は収まり、当然ながら革命などには発展しなかったのだが、民衆を軍隊で弾圧し殺傷までした寺内首相は民衆の支持を失い、各地で新聞が「寺内首相退陣」を求めるキャンペーンを張った。
こうしたなか、元老山県有朋も寺内を見限り、元老西園寺公望に後継首相を依頼した。桂園時代と同じ、「困ったときの西園寺」である。政党嫌いの陸軍閥は、陸軍出身の内閣になにか問題があった場合「つなぎ」として西園寺に首相を任せてきたのだが、かねてから日本に欧米並みの政党内閣を成立させることを悲願としている西園寺は、それを実現させる絶好のチャンスと見た。
いま自分が首相就任を拒否すれば、政党嫌いの山県も民心を鎮めるために政党内閣成立に協力せざるを得ない、と見たからである。その結果、九月二十一日に寺内内閣の総辞職を受けて当時衆議院の第一党政友会の総裁でもあった原敬を元老たちは一致して首相に推薦し、九月二十九日には原内閣が成立した。これまで日本の憲政史上政党内閣は存在したが、衆議院の第一党の総裁が首相になるという完全な政党内閣はこれが初めてのことであった。
しかも、原はそれまですべての首相が持っていた爵位を持っておらず、華族では無く平民であったため、「平民宰相」と呼ばれた。しかも初の「賊軍出身」の首相であった。彼の経歴を簡単に紹介すると、
〈原敬
はら-たかし 1856-1921
明治-大正時代の政治家。
安政3年2月9日生まれ。井上馨(かおる)、陸奥宗光(むつ-むねみつ)にみとめられて外務次官、駐朝鮮公使。明治31年大阪毎日新聞社長となる。33年政友会結成に参画し、のち総裁。35年衆議院議員(当選8回)。大正7年内閣を組織、陸・海・外務の3大臣以外の閣僚に政友会党員をあてた。衆議院に議席をもつ最初の首相で、平民宰相とよばれる。大正10年11月4日東京駅頭で中岡艮一(こんいち)に刺殺された。66歳。陸奥盛岡出身。司法省法学校中退。幼名は健次郎。号は一山など。
【格言など】墓標は位階勲等を書かず、単に「原敬墓」と銘記すること(遺書)〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
経歴で注目していただきたいのは、最後の「号」である。前回紹介したが、これは戊辰戦争のとき官軍が東北などろくな土地は無いと嘲った言葉「白河以北一山百文」から採ったものなのである。
(第1444回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年2月7日号