千里ニュータウンにつづくように、東京都・神奈川県でも多摩ニュータウンの計画が浮 上します。行政主導で大規模なニュータウンが造成されたことで、数字上の戸数は増えました。戸数が増えれば住宅難は解消するはずですが、現実はそう簡単な話ではありません。
なぜなら、ニュータウン住民の多くは勤め人だったからです。会社まで通勤できなければ居住(移住)できません。職場から遠い場所に団地を造成しても、交通手段がなければ意味がないのです。
1962年9月に第一期入居が始まった千里ニュータウンは、大阪府吹田市・豊中市の広大な丘陵地に築かれました。ニュータウン以前の千里丘陵は都市化とは無縁の大地だったので、当然ながら公共交通は整備されていません。行政は、そこに万人もの人工都市を出現させたのです。
高度経済成長期に計画がスタートした多くのニュータウンは、約半世紀を経て住民が高齢化しました。一部のニュータウンは「オールドタウン」と皮肉をこめて呼ばれるようになりました。
最近は高齢化や人口減少なども顕著で、ニュータウンに以前のような活気は見られません。そうしたニュータウンは「限界集落」になぞらえて、「限界ニュータウン」と揶揄されるようになっています。
万博のおかげで開通した北大阪急行
千里ニュータウンは限界ニュータウン化していませんが、以前に比べれば活気が乏しくなっているのは事実です。それでも多くのニュータウンが衰退している中、千里ニュータウンが今も10万2673人の人口を抱え(2024年、吹田市・豊中市千里ニュータウン連絡会議「千里ニュータウンの資料集」調べ)、ある程度の活気を保っているのは、北大阪急行電鉄によって大阪市中心部へのアクセスが抜群だからです。
しかし、当初の千里ニュータウンは、公共交通を整備するという概念は希薄でした。それよりもモータリゼーションの時代に適合させるかのように道路整備に力を入れ、マイカーを中心とする都市計画に傾斜していました。
道路整備に力を入れていた千里ニュータウンでは、住民が大阪市内へと通勤するのには一苦労でした。入居開始時にニュータウン内を走る鉄道はなく、その翌年となる1963年に、ようやく阪急バスが運行を開始します。しかし、同バスはニュータウン内を走るといっても南端の千里山駅から吹田駅に向かうルートでした。そのため、大阪市内への通勤には不向きだったのです。