こうした公共交通の整備状況から、千里ニュータウンは長らく陸の孤島と化していました。それを解消する鉄道は1970年から走り始めます。
千里ニュータウンに鉄道が整備されたのは、言うまでもなく千里丘陵を会場地にした日本万国博覧会(大阪万博)が1970年に開催される影響でした。大阪府は万博会場までの輸送を担う鉄道整備を迫られていたのです。
大阪府は万博会場へと向かう鉄道を大阪市営地下鉄(現・OsakaMetro)御堂筋線・江坂駅から延伸させる予定にしていました。
大阪府は大阪市に御堂筋線の延伸を打診しましたが、大阪市は採算面や千里丘陵が大阪市外であることを理由に拒否します。大阪市に袖にされた大阪府は阪急を頼り、大阪府も出資する第3セクターの北大阪急行電鉄を設立。そして御堂筋線の江坂駅から継ぎ足す形で万国博中央口駅までを開業させたのです。
万国博中央口駅は会場の最寄駅として機能しましたが、万博閉幕後は少し位置を変えて千里中央駅になりました。駅名とともに役割も変わり、ニュータウン住民の足を担うようになるのです。これが今に至るまで交通至便なニュータウンという位置付けとなり、千里ニュータウンは全国のニュータウンが急速に衰えていく中で活気を保ち続ける要因にもなっています。