殿はいった、「頑張れよ。漫才も辞めるなよ」
目の前にいる殿は、意外なほど落ち着いていて、オレの話を黙って聞いてくれた。
オレがひと通り話をしたあとに、殿がポツリと口を開いた。
「おまえの気持ちはよくわかったよ……」
そして、意外にもこんなことをいったんだ。
「(事務所なんて)辞めちゃえ、辞めちゃえ」
実にあっさりとした口調だった。
殿は怒っているのか?
殿はあきれているのか?
殿はオレを突き放しているのか?
その瞬間、いろいろな思いが頭をよぎったよ。そして、殿は続けた。
「……オレのいない会社なんかどうせすぐ潰れるんだから。辞めちゃえよ」
それはきっと、殿の本心ではなかっただろう。
それでも、目の前で真剣に話している姿を見て、オレなんかの考えを尊重してくれたからこそ、あえて冗談っぽくいってくれたのだと思う。真意こそわからないけれど、そのひとことで、オレは救われた。気持ちが一気に楽になるのが自分でもよくわかった。
もしも、「芸人を辞めます」と告げたとしたら、きっと殿は「考え直せ」と止めてくれたに違いない。
希望的観測過ぎるかもしれないけれど、「個人でやっていきます」といったから、明るく背中を押してくれたのだと、オレは勝手に解釈している。
それからしばらくして、再度、殿にあいさつに行った。
いまは三谷幸喜さんがメインキャスターを務めているけれど、以前は殿が長くメインキャスターをしていた『情報7daysニュースキャスター』の生放送が土曜の夜にあるから、その本番前なら時間があるということで赤坂にあるTBSに向かった。
個人事務所を立ち上げ、フリーランスの芸人として生きていく覚悟と準備が固まったことを、あらためてきちんと報告したかったんだよな。
このときも、殿は黙ってオレの話を聞いてくれた。
そして、こんなことをいわれたよ。
「で、これから漫才はどうするんだよ?」
あらためて、自分の決意を殿に伝える。やっぱり殿は、「いい」とも「ダメ」ともいわなかった。ただ、こんな言葉を口にしたよ。
「……そうか。わかったよ。でも、もったいねぇな」って。
この言葉は胸に沁みた。「もったいねぇな」というのは殿の本心だと思う。せっかく「浅草キッド」という最高の名前をもらい、漫才師としてここまで頑張ってきたのに、それを自ら手放そうというんだから、それは当然だよな。
オレはただただ、殿の言葉を噛み締めることしかできなかった。
部屋にある時計を見ると、生放送がはじまる夜の10時が近づいている。そろそろ殿はスタジオに向かうだろう。楽屋を出ていこうとするオレに向かって、殿は最後にいった。
「頑張れよ。漫才も辞めるなよ」
オレは、涙をこらえ、「はい……」と答えるだけで精一杯だった。
(第2回に続く)