空から見た築地市場(東京中央卸売市場)扇のように独特のカーブを描く外観は鉄道の貨物線路の長さを確保するためだった。1990年11月(時事通信フォト)
近年、貨物列車が見直されている。トラック輸送が拡大されて縮小していたが、運転手不足や環境負荷への問題などから、トラックから鉄道貨物へと輸送手段をシフトする動きが目立っているほどだ。長距離輸送を鉄道で行うのが最先端だった時代には、列車を目的地へ直接、引き込み、荷下ろしができる建屋とするのが新しかった。ライターの小川裕夫氏が上梓した「鉄道がつなぐ昭和100年史」(ビジネス社)から、1935年から2018年まで83年間、つかわれていた公設の卸売市場「築地市場」の誕生と鉄道の関わりについて、再編集してお届けする。
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2018年に営業を終了した築地市場は、もともと日本橋にあった日本橋魚河岸と京橋にあった京橋青物市場をルーツとしています。日本橋魚河岸と京橋青物市場は、1923年の関東大震災で建屋が損壊したことから築地へと移転、1935年に開設しました。
江戸時代の物流は舟運が主力です。地方から物資が集まる江戸は、市中を河川が縦横無尽に走り、その町割は基本的に明治期にも受け継がれていました。
明治期には市区改正といった都市大改造が断行され、東京という都市は大きく変化していきます。それでも、江戸から東京は連続性を保った都市のままでした。
そうした連続性を断ち切ったのが、関東大震災です。関東大震災は日本の地震史に記録される大地震で、浅草の凌雲閣が倒壊したことなど、その被害の大きさが語り継がれています。凌雲閣は高さが約 52メートルの高層建築で、12階建てだったことから「浅草十二階」と呼び親しまれていました。
日本橋から築地へ
浅草十二階が倒壊するほどの大地震でしたが、それ以上に被害を大きくしたのは火災です。地震発生の時間帯が昼食時だったこともあり、多くの家庭では炊事中だったのです。
当時は調理に薪や炭で火をおこす「かまど」や「七輪」などを使用するのが普通だったこともあり、倒壊した家屋に炊事の火が燃え移り、家屋が燃えた火が連鎖的に隣の家屋へと飛び火するといった具合に火の手は拡大していきました。