すでに汐留駅から築地市場に延びていた線路は撤去されているが、踏切があった場所には警報器の遺構が保存されている(2011年5月撮影:小川裕夫)
特に、江戸の町割りを残していた日本橋・銀座・神田・上野といった、いわゆる下町は地震後に起きた火事によって壊滅します。
関東大震災による被害は、東京市だけで 30万8000世帯を超えました。当時の東京市は東部の15区だけで現在の渋谷区や新宿区、豊島区や目黒区は含まれていません。今の23区と比べると、東京市はおおよそ半分の大きさでしかありません。それでも東京市の人口は、日本の総人口が約5500万人だった時代に約230万9000人を占めており、それだけ都心部に家屋が密集していたのです。
そんな過密都市・東京だったこともあり、約133万4000人が罹災、死者は5万8000人超という大災害になりました。
日本橋魚河岸は地震によって損壊し、その後の火事で焼失。しかし、すぐにバラックで仮営業を始めた卸売商もいました。
もともと日本橋魚河岸は、江戸時代から鮮魚の卸売市場だったので、震災以前から魚の汚臭や魚の処理に伴って発生する汚水を理由に中心部からの移転を求められていました。
関東大震災で焼失したことを機に、日本橋魚河岸の移転計画は大きく動き出します。移転議論では、あまり遠くへ移転すると顧客が離れてしまうという懸念が出ました。そのため、日本橋から離れつつも以前の場所から近いことが新天地の条件に課されました。
その条件をクリアしたのが築地です。築地には海軍省が保有する広大な用地があり、東京市は水運に恵まれているという立地も卸売市場に適していると考えました。海軍から借り受ける形で震災から3か月後には、臨時的に築地へと市場が移転します。しかし、これはあくまでも仮という扱いでした。なぜなら、築地への移転に抵抗感を示す日本橋魚河岸関係者が少なくなかったからです。
同様に関東大震災で被災した京橋青物市場でも、同じ場所で商売を続けたいと考えていた卸売商が多くいました。
こうして意見はまとまらないまま時間が過ぎ、また日本橋・京橋それぞれの足並みも揃わず、築地市場への移転は間延びしていきます。それでも1934年には築地市場の建屋が完成。築地への移転が既定路線になりました。