宝塚大劇場・宝塚バウホール
華やかな宝塚歌劇団に、全国熱狂させる甲子園球場―――。関西の文化は独特の発展を遂げている。
関東と関西にはさまざまな違いがあるが、「鉄道」もその一つだ。首都圏では官営の鉄道が公共交通の核を担った一方、関西は私鉄が公共交通の主軸として街づくりが進められた。そうした関西の発展に貢献してきた私鉄の歴史を紐解くと、関西の“文化”が見えてくる。
大阪出身の元全国紙新聞記者・松本泉氏が、関西五大私鉄(阪急、阪神、京阪、南海、近鉄)の歴史を綴った『関西人はなぜ「○○電車」というのか─関西鉄道百年史─』(淡交社)より、阪急電鉄VS.阪神電気鉄道をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全5回の第1回】
* * *
阪急と阪神がスピード競争だけに明け暮れていたのかというと、決してそんなことはなかった。
沿線に魅力的な行楽施設をつくり、一人でも多く乗客を集めるとともに、企業イメージのアップを図ろうと腐心した。
大正時代になると、郊外に居を構えて、都心の会社や商店に通うサラリーマン家庭が登場した。彼らは、休日にはレジャーや買い物を楽しむ新しい都市型の生活スタイルをつくっていった。
鉄道は人を運ぶだけではなく、夢や楽しみを運ぶことも求められるようになった。
阪急は、箕面有馬電気軌道の開業当初から、住宅地の開発とあわせて行楽施設の開発にエネルギーを注いだ。利用客を一人でも多くつくり出して、「ミミズ電車」から脱却することが使命だった。
メインになったのは「宝塚」だった。
箕面有馬電気軌道は、もともと大阪と有馬温泉を結ぶ計画で、宝塚は通過点に過ぎなかった。日本の三大古湯の一つである有馬温泉ならいざ知らず、寂れた湯治場である宝塚温泉では行楽客は限られている。
開業翌年の1911(明治44)年に、家族連れでも気軽に利用できる温泉施設として「宝塚新温泉」を開設した。
翌年には、演芸場のほか当時は珍しかった室内プールなどを備える娯楽施設「宝塚新温泉パラダイス」をオープンした。
温泉というと芸妓と遊ぶ男性の社交場というイメージが強かったが、宝塚新温泉パラダイスは、子ども連れでも楽しめる娯楽施設を目指した。「宝塚婦人こども博覧会」を開催し、室内プールは男女別にして“健全性”を打ち出した。