小学生時代はバッテリーを組んだ(左から田中将大、坂本勇人)。写真提供/山崎三孝氏
対照的な性格だった“坂本・田中バッテリー”
伊丹市では学年ごとにチームを組んでそれぞれの学年の大会に出る。田中と坂本の学年は、頭ひとつ抜けていた選手がもうひとりいたため、その3人を中心にチームを作ることになったという。
「同級生は16人の部員がいましたが、“3羽ガラス”と呼ばれる選手がズバ抜けていました。田中君、坂本君と三重の高校に進んだもうひとりの子が際立っていました。打球を最も遠くに飛ばしていたのがそのもうひとりの同級生で、2番目は田中君。2人は校舎の2階、3階まで飛ばしていた。坂本君は遠くに飛ばすというより、アベレージヒッターでした」
坂本は元々、左利きだった。だが、兄のおさがりである右利き用グローブを使っていたために、右投げ右打ちで野球を始めた。
「将来は高校、大学、プロと上がっていける選手だと思ったので、“同じレベルの選手がいたら、監督は左右どちらでも打てる選手を使う”と説得し、スイッチヒッターをやらせてみたんです。ところが、田中ともうひとりの同級生があまりに打球を遠くに飛ばすので、“右打ちだけに戻させてほしい”と言ってきた。チームの一番にならないと気が済まない。坂本君はそれほど負けず嫌いでした」
「昆陽里タイガース」では、3年生になると試合に出場することができた。その際、3人の中からピッチャーを選出することになった。ピッチャーに選ばれたのは、体が大きかったもうひとりの同級生。肩が最も強かった田中はキャッチャー、坂本は守備の要であるショートを守ることになった。
「田中君の性格がピッチャーに向いていたことや体格の問題もあり、4年生の夏にバッテリーの入れ替えを提案しました。ところが、もうひとりの同級生の両親から“4番でエースは野球の花形。降格させないでほしい”と抗議を受け、断念しました。そんなこともありましたが、2年後にもう一波乱あった。そのもうひとりの同級生が6年生の春休みに遊んでいて肋骨を折ってしまったんです。そこでピッチャーを誰にするかを話し合いました。
努力家の田中君はキャッチャーの勉強を深くしていたからか、当時のポジションが面白くなっていた。そのため、肩の良かった坂本君をピッチャーに起用しました。4年生の時点で田中君をピッチャーにしていれば、坂本・田中のバッテリーは実現しなかった。天才型の坂本君と努力型の田中君。性格も対照的な2人のバッテリーはなかなか呼吸が合わなかった。田中君は、“坂本がサイン通りに投げてこない”と不満をよく漏らしていました。
そんな2人もプロとして立派に成長した。今の思いを述べるなら、田中君と坂本君が協力し合って日本一になってほしいと思います」
中学、高校、プロと別々の野球人生を歩んできた2人。田中がピンチに陥った時、サードから坂本が駆け寄る姿を多くのファンが期待している。