また現在のプーチン政権下のロシアもそうだが、あの国は戦況が不利になると犯罪者を解放し免責を条件に兵士として活用するという「悪癖」がある。強盗やレイプ魔が武器を持たされ「敵を殺せ」と戦場に放たれるのである。そういう彼らが民間人に手を出してはいけないというルールをきちんと守るかどうか、誰にでも予測できることではないだろうか。
この時代のソビエト連邦も、反革命勢力は根絶やしにしなければいけないという大義名分があった。そのためには軍人として優秀だということが第一であって、本人が道徳的な人間であるかどうかを問われることはまったく無かった。赤軍は貧しい階級の出身者が多い。逆に白軍の関係者には貴族の令嬢などもいる。全員とは言わないが、そういう「ならず者集団」である赤軍が白軍を支持する市民たちをどのような目で見ていたか、あらためて書くまでも無いだろう。
要するに、赤軍は末端にいけばいくほど中央の統制がゆき届かないこともあり、「乱妨取り」集団と化していたということだ。革命を成功させるという大義名分があるから、ちょうど信長以前の日本の戦国大名が戦いに勝てば足軽たちの「乱妨取り」を「報酬」として黙認したように、それから三百年以上もたったロシアでも同じことが繰り返されたということだ。
しかし、この尼港事件においては「報酬として黙認」されるはずの行為が咎められ、首謀者のヤーコフ・トリャピーツィンは「女参謀長」のニーナ・レべデワとともに死刑に処せられた。おわかりだろう、ソビエト政府ですら彼らの行動は「やり過ぎ」と認めたということだ。しかし、すでに述べたようにこの死刑判決に「日本人虐殺に対する罪」は一切含まれていない。あくまで、同胞を虐殺し尼港を焼亡させた罪である。
ここで、もう一つ知っておいてもらいたい歴史的事実がある。日本がシベリア出兵でサポートしようとしていた白軍勢力は壊滅してしまった。ということは、白軍を支持する「白系ロシア人」、これは前にも述べたように人種的呼称では無く白軍支持のロシア人ということだが、彼らが自らの安全を確保するためには日本軍に頼るしかなかったということだ。
まさに「オオカミの群れのなかに取り残されたヒツジ」ともいうべき彼らは、白軍自体が消滅したり武装解除されたこともあって、略奪暴行とは無縁な日本軍に助けを求めたのである。
たとえば、アムール川の少し上流にある都市ブラゴヴェシチェンスクは当初日本軍の攻撃により占領されコルチャーク政権に引き渡されたが、政権が崩壊するとまさに武装解除された白軍兵士や白系ロシア人が「オオカミの群れのなかに取り残されたヒツジ」状態になった。
日本軍はコルチャーク政権崩壊後、赤軍とは直接交戦しないという中央の方針に従って中立を保っていたが、赤軍兵士の「乱妨取り」を怖れた白系ロシア人は日本軍に保護を求めた。そこで当時現地に駐屯していた陸軍第十四師団の白水淡師団長(中将)は、赤軍と交渉し「一般市民の生命財産を保障する」という確約をとった。皮肉なことに、ブラゴヴェシチェンスクは義和団の変(1900年)の時代までは清国人(当時)の居住区があった。
しかし、清国中央の混乱に乗じたロシア帝国軍が清国系住民を皆殺しにし、アムール川に死体を捨てた。そう、一高寮歌に「アムール川の流血や」と歌われた、清国人居留地「江東六十四屯」の大虐殺、まさにその舞台がこのブラゴヴェシチェンスクだったのだ。この時点ではわずか二十年前の話だから、住民にはその蛮行の目撃者もいたはずである。今度は自分がそういう目に遭うと、おおいに怖れたのかもしれない。そういう人々にとって日本軍は、じつに頼もしい味方だった。