作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その21」をお届けする(第1446回)。
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前回、第一次世界大戦を総括したベルサイユ講和会議(1919年=大正8)の前後に起きた、大日本帝国のその後の方向性を定めた二つの重大事件のうち「前」の白虹事件(1918年)について述べた。今回は、「後」の尼港事件(1920年=大正9)について述べよう。まず「尼港」とはなにか?
尼港とは地名で、現在のロシア領(当時はソビエト連邦領)のニコラエフスク・ナ・アムーレのこと。アムール川の河口に位置する都市である。河口を出ると樺太(現サハリン)も近く、日本海に出られる。ちなみに、当時南樺太は日本領である。シベリア出兵で多くの日本兵とそれを支える民間人が大陸に「進出」したが、尼港は当初白軍の拠点でもあったため輸出も含めた漁業に従事する日本人が数百名在住していた。日本領事館もあり、陸軍の一個大隊と海軍の通信隊も駐屯していた。
つまり日本の事実上の占領地であり、赤軍に敗れた白軍の部隊もここへ逃げ込んできていた。日本にとって白軍は友軍だから彼らとは敵対せず、もちろん武装解除も求めず平和的な共存状態を保っていた。
問題は、この地が戦略上の拠点だったことだ。アムール川のような大陸の川、いや大河を日本の川の常識で考えてはいけない。戦艦も悠々と航行できる広さと深さがある。ここを押さえておかないと、日本海軍が大陸への進入路として活用する可能性があったのだ。そこで赤軍は、「尼港奪回」を策した。その赤軍の司令官はヤーコフ・イヴァノヴィチ・トリャピーツィンという男だったが、これがじつに悪魔のような人物であった。なぜそう言えるかと言えば、彼は尼港事件において次のようなことをしでかしたからだ。
〈尼港事件 にこうじけん
シベリア出兵中の1920年3~5月に尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した事件。同市はソ連(現、ロシア)極東のアムール川河口に近い漁業都市で日本領事館も置かれていた。日本軍はここを1918年9月占領し、20年冬には日本人居留民約380名、陸軍守備隊1個大隊、海軍通信隊約350名がいた。たまたま同年1月トリャピーツィンYa.I.Tryapitsinの率いる約4000名のパルチザン部隊が日本軍を包囲した。衆寡敵せず日本軍は敗れ、パルチザンとの間で停戦協定をむすんだ。ところが3月11日武器引渡しを要求されたのを機に日本軍は奇襲をかけ一般人もこれに加わった。結局日本人側は大半が戦死、残った者も降伏し投獄された。この間石田虎松副領事一家は自決をとげた。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者吉村道男)
ここまでなら、通常の戦争でも起こりうることだろう。ところが、そのあとがまったく違った。
〈やがて解氷期となり日本の救援隊が向かうと、その到着前の5月下旬パルチザン側は、監獄に収容中の日本人俘虜を虐殺した。また同地を退去する際にパルチザンは市街を焼き払い、一般市民約8000名の半数を殺害したと伝えられた。この〈尼港の惨劇〉は日本に大々的に宣伝され、〈元寇以来の国辱〉として、シベリア駐兵の必要を説く軍部などに利用された。日本政府は7月3日、同事件の解決の保障として北樺太の占領を宣言し同地への出兵が行われた。(以下略)〉
(引用前掲書)