『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で共演した大本さん(中央左)と明菜(中央右)(1987年2月)
「先生に会いたかった…」
デビュー後、ヒット曲を連発し順調にスター街道を歩んでいた明菜だが、私生活に関するトラブルなどで、1989年頃からは活動休止と再開を繰り返した。その間も大本さんは彼女のことをずっと気にかけていたという。
「テレビで歌声を聴きながら『声に元気がない』と言って心配していました。父はレッスンでも、歌声から体調不良などを言い当てるくらい耳がいいんです。明菜ちゃんの歌から、彼女のSOSを感じ取っていたのでしょう」(京さん・以下同)
“師弟”が偶然の再会を果たしたのは、1990年代後半のこと。その場に立ち会った京さんは、その日のことがいまも忘れられないという。
「家族で六本木(東京)のバーへ行くと、たまたま明菜ちゃんが関係者と一緒に来ていたんです。父の姿に気づいた彼女は『わぁ! 大本先生~』と言いながら父に抱きつき、泣き出しました。父が『よしよし』と子供をあやすようにしながら『元気か?』と声をかけると、『先生に会いたかった……』と言いながら泣きじゃくっていました」
帰り際には、2人で「がんばれよ、またな」「先生、またね」と再会の約束を交わしていたという。前述のように、2022年夏に再始動を宣言した明菜がそのピッチを上げてきた姿に、恩師は「がんばってるな」と応援していたという。
「父は、2020年3月までレッスンを続けていました。その後は家でピアノを弾いたり歌ったりと音楽に触れながら穏やかに過ごし、最期は老衰で静かに息を引き取りました」
京さんが大本さんの死を公表したのは、四十九日を過ぎた2月26日のこと。
「父は『自分は縁の下の力持ちだから』が口癖だったので、その意を汲み、すぐの公表は控えました」
六本木のバーでの再会の後、師弟が「またね」の約束を果たすことはなかった。
「大本さんは明菜さんを忘れることはありませんでした。活動休止中の彼女について『再始動して喉の調子が悪かったらいつでも来てほしい』と気にかけていて、陰ながらエールを送っていました」(西崎さん)
最愛の恩師とともに探した唯一無二の声を武器に、明菜は新たなステージで歌声を捧げる──。
※女性セブン2025年3月20日号