落合博満氏(中央)は2004年から2011年までの8年間、中日の監督を務めた(時事通信フォト)
3年連続最下位からの復権を目指す中日の選手たちに、球場で、あるいはテレビ画面越しにドラゴンズファンは熱い声援を送る。半世紀超のドラファンで、『人生で残酷なことはドラゴンズに教えられた』の著者・富坂聰氏(拓殖大学海外事情研究所教授)が、チームの成績・強さと反比例するように推移した、ホーム球場の観客動員数の不思議について指摘する。(シリーズ第17回。第1回から読む)
* * *
名古屋の土地柄にちょっと“面倒くさい感じ”があったとすれば、ドラゴンズの選手のなかにだって、合う人もいれば合わない人もいるのが自然だ。
“味噌味は勘弁してくれー”という選手もいれば、独特の方言を操る濃ゆーい感じの人々が苦手という選手もいたのだろう。ドラゴンズ一筋という選手でも、わざわざ愛知県を離れて家を建てた選手もいたかもしれない。
ただ、そうしたケースとは違い、もっと誰にでも分かるような形で、名古屋という土地と距離ができてしまった野球人がいた。
オレ流、落合博満監督である。
強かった落合時代に客が入らなかったのはなぜ?
落合ドラゴンズが「常勝軍団」と呼ばれた時期、私はすでに東京に暮らしていたのだが、その「強いドラゴンズ」に、名古屋のドラファンたちが冷ややかだったというのが、どうも解せない。
とりわけナゴヤドームでの勝率が高かったというのに。
落合監督はおそらく、「勝つ」ことに執念を燃やし、それ以外のことは気にしなかった。そんなタイプの指揮官なのだろう。試合後の記者会見でも、愛想のかけらもない。
落合が「今・金・中・夕」と近づいてくる名古屋人(シリーズ第16回参照)に優しかったとは思えない。案の定、ドラゴンズの周りに蝟集していた名古屋のタニマチや財界人たちは、次第に離れていった。
地元メディアとの冷戦はつとに有名だ。
帰省したとき、旧友に「こんなに強いのに、落合が嫌いって人、おんの?」と訊くと、「存外、多いんだにー」という答えが返ってきた。
仄聞するに、タニマチ的有力者や経営者のグループが、ちょっとしたサービスを求めても、頑として応じなかったらしい。「強けりゃ、文句ないだろう」といったところか。
だが、名古屋人は「コーヒーを注文したら、豆菓子くらいはついてくる」というサービスに慣れきっている。タニマチからすれば、「カネ払っとんのに、そりゃなーて」となる。
結果、強いドラゴンズが快進撃を続けても、球場からファンの足は遠のくという「ねじれ」が生じたというわけだ。
もっとも、それはメディアやビジネスの都合であって、野球ファンの視点に立てば、「あっしには、関わりのねーことでござんす」(by木枯し紋次郎)ということだ。球場に行ったら、豪快なホームランは見たい。ファンサービスも嬉しい。だが、負けたらやっぱり悲しい。勝つに越したことはないのだ。
あの頃を振り返って「守り勝つ野球が退屈だった」「ファンを熱狂させるのは、やっぱり打撃・得点力だ」などといった解説をよく聞くが、やはり勝つことの喜びは格別だ。もちろん、打って打って打ち勝つことができれば、それは最高なのだが。