速球とスライダーを武器に活躍、コリアン・エクスプレスと呼ばれた宣銅烈(時事通信フォト)
「日中問題」を専門とする大学教授が「中日問題」を論じた異色の新書『人生で残酷なことはドラゴンズに教えられた』が話題だ。同書の著者で、物心ついた頃からのドラファンである富坂聰氏(拓殖大学海外事情研究所教授)が綴るシリーズ第18回では、闘将・星野仙一監督時代(1987-1991年、1996-2001年)に始まる、多様性に満ちた中日ドラゴンズの“助っ人外国人”戦略について振り返る(シリーズ第18回。第1回から読む)
台湾、韓国の才能を見抜いた星野の炯眼
旧態依然、猛烈、根性、気合、鉄拳……そんな言葉のイメージは、たしかに指導者・星野につきまとうが、あまりに一面的だ。少なくともトレードではドライだった。
トレードだけではない。助っ人の獲得では、保守的どころか、むしろ進取の精神を発揮していた。
その入り口は“脱欧米”だ。第一次星野政権のドラゴンズで“助っ人”として目立ったのは、なんといっても台湾からの選手だった。
投手ではストッパーとして活躍した郭源治投手、打者では王選手に憧れて一本足打法を取り入れた大豊泰昭(陳大豊)選手だ。
中日に見出された台湾の才能たちが名古屋のファンに愛され、日本野球界で活躍し、広く野球ファンたちに認められたことから、その後、巨人をはじめとした各球団がこぞって台湾に目を向け、そこから日本プロ野球のスターとなる選手を獲得するという流れが定着していったのだ。ドラゴンズは、パイオニアだ。
それだけじゃない。第二次星野政権では、台湾に続いて韓国からも助っ人を引っ張ってくるという新技を繰り出している。
まだ“韓流”ブームの影も形もなかった頃だ。大ヒットドラマ、「冬のソナタ」の大ブームはそれから7年も後のことだ。日本人の韓国に対するイメージはお世辞にも良いとはいえず、対馬海峡には「政治・文化摩擦の壁」が立ちはだかっていた。
とくに野球に関しては、お互いが「国技」と位置づけるほどの人気スポーツだったから、試合ともなればライバル心をむき出しにした。日本のプロ野球界には日本で通用しなくなった選手が韓国に行くという、韓国球界を下に見る風潮もあり、その“都落ち”意識を逆流させて「助っ人を連れてくる」なんて発想は、そもそもなかった。
だが、そこはさすがにドラゴンズ。合理的だ。
1996年、韓国の至宝と呼ばれた宣銅烈(ソン・ドンヨル)投手を連れてくるのだ。宣は、当初こそ少し苦労するが、結果的に大活躍する。「コリアン・エクスプレス」は日本の線路を走っても超特急だったことを証明した。
そして「韓国のイチロー」こと李鍾範(イ・ジョンボム)選手もやってきた。李の長男の李政厚(イ・ジョンフ)選手はいま、メジャーリーガーとして活躍している。
「メジャー中継で、解説者が『ドラゴンズにいた李鍾範選手の息子です』と言うのが嬉しくて仕方ないんですよ。しかも李は、名古屋市生まれですからね」(40年来の中日ファン)
同じ感想を持つファンは少なくない。