作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その25」をお届けする(第1450回)。
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尼港事件についてもっとも公平な視点でのレポートと言える『ニコラエフスクの日本人虐殺─ 一九二〇年、尼港事件の真実』(アナトーリー・グートマン著 長勢了治訳 勉誠出版刊)をもとに、その真相に迫ってみよう。
まず著者のアナトーリー・グートマン(1889~1950)の経歴だが、この本の記載によれば「ユダヤ系ロシア人のジャーナリスト。ペンネームはアナトーリー・ガン。ロシア革命後の内戦期にモスクワ、オムスク、ウラジオストクと移動しながら新聞を発行。1920年2月に来日し、横浜でロシア語新聞『デーロ・ロシイ(ロシアの大義)』を編集発行した。同年7月に上海へ渡り『ボリシェヴィズムとドイツ』(1921年)を出版。1922年にはベルリンへ渡って本書(1924年)を刊行した」とある。
これに対して、訳者の長勢了治(1949年生)は『シベリア抑留全史』(原書房刊)などの著書があるが、大学などの研究機関に属さない在野の研究者である。このグートマンの著書は尼港事件の基本的文献であるにもかかわらず、歴史学界は決して翻訳しようとしなかった。
あまりのことに在野の歴史家である齊藤学という人が英語版から『ニコラエフスクの破壊』というタイトルで重訳し、自費出版で各地の図書館に配布したのだが、重訳というのは「伝言ゲーム」のように不正確な部分が出てくるのに加え、私家版は部数が少なく篤志家の志はあまり活かされたとは言えない。そこで、またも在野の研究者によって百周年にあたる二〇二〇年(令和2)に、ようやくこの「完全版」が出版された。
この時代を研究しているはずの多くの歴史学者の怠慢を、在野の歴史家がカバーしたというわけだ。あらためて強調しておくが、日本の左翼歴史学者の「共産国家の悪は暴きたくない」という欲望は、これほど強いのである。
長勢も前出の『ニコラエフスクの日本人虐殺』の「訳者まえがき」で、次のように述べている。
〈本書は戦後、日本人が忘れた(忘れさせられた)尼港事件を生き証人の生々しい証言からよみがえらせる第一級の「歴史ドキュメンタリー」である。〉
そして、さらに続ける。
〈尼港では四〇〇〇人の赤色パルチザンによって日本の軍人と居留民は七三〇人以上がほぼ皆殺し、ロシア人は六〇〇〇人以上が虐殺された。当時の人口は約一万二〇〇〇人だというから半数以上が犠牲になったことになり、まさしく大虐殺、残虐な「赤色テロル」だった。(中略)グートマンが基礎資料としたのは尼港事件直後にロシアでつくられた「調査委員会」が三ヵ月間(一九二〇年七月~九月)現地調査してまとめた報告書である。それは五〇人(英訳者によると五七人)の生き証人からの聞き取り調査で、そのうち三三篇が本書に収められた。証言者には官吏、将校、商人、手工業者、農民、中学校生徒、司祭、ソヴィエト活動家など多様な人が入っており、当のパルチザンすら証言しているが、事件直後でありながらいずれも感情的ではない冷静な陳述である。〉
では、この著作をもとに事件の具体的経過をまとめておこう。この事件の主犯、つまりソビエト政府公認の赤色パルチザンの首領は、ヤーコフ・トリャピーツインという二十代半ばの男(正確な生年は不明)だった。なぜソビエト軍では無く赤色パルチザンと呼ぶかと言えば、この時代レーニンを首班とするソビエト革命政府はまだ完全な国家機構を整えておらず、中央はともかく地方に行けば行くほど革命に同調する「赤系ロシア人」が自主的に編成した義勇軍を頼らざるを得なかったからである。
しかし彼らは進んで中央の革命政府と連絡を取り、その指揮下に入ったのだから単なるゲリラ部隊では無く、ソビエト軍に準じるものと考えていいだろう。ただ、正式な国軍として育成された軍隊では無いので、「ならず者のたまり場」になる危険性を有していた。それでも革命政府が彼らを公認したのは、「白系ロシア人」つまり反革命勢力を国土から一掃するためである。