現役時代の小山さんは「投げる精密機械」と呼ばれた
プロ通算400勝の金田正一さん、350勝の米田哲也さんに続く歴代3位となる320勝を挙げた小山正明さん。4月18日に心不全で亡くなったことが、23日にかつて所属した阪神球団から発表された。90歳だった。
阪神にテスト生として入団した小山さんだが、無名の新人が大成して球界に君臨したケースとして野村克也、山内一弘、西沢道夫とともに名前が挙がるひとりだ。元デイリースポーツ編集局長・平井隆司氏はこう話す。
「村山実に代表されるように、当時の阪神は速球を武器にした本格派投手が投手陣を形成していた。そんな中で小山さんは“針の穴を通す”と言われた制球力を身につけ、技巧派ピッチャーとして活躍。球審が“小山が投げた球は全部ストライク”と漏らすほどコントロールがよかった。小山さんの勲章といえる通算無四死球試合は73。鈴木啓示(78試合)に抜かれるまではダントツの数字だった」
阪神ではザトペック投法の村山実との2枚看板として活躍した。1959年の長嶋茂雄の劇的なサヨナラホーマーで知られる天覧試合では、先発したのは村山ではなく小山正明だった。7回に王貞治の2ランで同点に追いつかれ、リリーフとして登板してサヨナラホーマーを浴びたのが村山だった。
かつて小山さんは本誌・週刊ポストの取材で、天覧試合についてこんな話をしていた。
「ボクは終戦が小学5年生の時で、子供の頃は君が代が聞こえれば直立不動、お召列車が通過する時は日の丸の旗を持って頭を下げるという時代だった。天皇陛下がどのような存在かはわかっていた。
選手は両陛下には野球を楽しんでいただきたい気持ちが強く、守備交代はむろん、内野ゴロでも全力で走るなど、とにかく一生懸命のプレーを心掛けた。鳴り物も禁止されていたと記憶しているが、球場全体がいつもと違う雰囲気だった」