そう、字こそ違うもののあのお銀である。覚兵衛や編修顧問の介三郎は実在の人物だが、元々虚構の産物だったお銀や〈風車の男〉こと隠密の〈中谷弥一郎〉までが本書には登場し、下田から駿府~藤枝~掛川まで全4話にお吟の入浴シーンがあるのも一興だ。
「実は最初の行き先を下田にしたのも温泉があったから(笑い)。元々第1話は作品の幅を警察小説だけに狭めたくなくて『機龍警察 自爆条項』(2011年)の直後に書き上げていたんです。その後、〈書物問屋〉の隠居に扮した一行の歩みが徐々に小刻みになるのは、続編の連作が決定したから(笑い)」
まずは下田在住の儒学者〈錫之原銅石〉から原稿を取り立てるべく箱根の難所を越えた御一行。ところが銅石は地元質屋〈戸的屋〉の息のかかる賭場で借金を作って姿を消したらしい。娘〈志乃〉も妙に頑なな中、城下では〈『夢現桃色枕』〉なる春本が人気を集め、やがて全ての接点に代官ぐるみの裏商売のカラクリが見え隠れする……。
この時、〈こちらにおわすをどなたと心得る〉の名台詞はまだ登場しない。敵味方が相乱れる中、元々文人の覚兵衛はオロオロするばかりで、印籠を見るや一同ひれ伏す状況を作ったのは別の人物だ。覚兵衛は2話以降、これを真似して事態を収拾したに過ぎない。
「私が考えたのは、ドラマ定番のシーンや人物像をどう転がせばより面白いか。ちょっとずらすだけでおかしみが出るのも、水戸黄門ならではでした。特に今は社会全体に閉塞感が漂い、先の都知事選の結果にしても、どこかスッキリしない気分が支持政党にかかわらずあるように思う。そうしたモヤモヤが一瞬でも晴れて、ああ面白かった、明日からまた頑張ろうと思わせてくれるのが、私の考える本来的な大衆文学なんです」