一家の大黒柱だった父親を失った彼の思いは、十分に伝わってきた。だが、その話を聞いて改めて思う。この事件は、本当に殺人事件として、扱われるべきものだったのか。数々の疑問が残るばかりだが、須田の結論は、こうだった。
「司法は、死を他人が導いてはいけない、と判断した。“自分で決める死”と“他人が決める死”には明確な線が引かれるべきだ、と。でも私は、必ずしもそうは思わない。自分のことを一番よく分かってくれている人を側に置いて死ねれば、それは最高だと思う。自分でない他人に(死を含める)すべてを委ねられるって、最高に幸せじゃないですか」
「自分で決める死」、つまりは「個人の死」の捉え方は、人によってさまざまだ。欧米と違い、日本では、「個人」が「家族」という土台の上に存在している。須田のいう「他人」が家族を指す場合、個人とも連なっていることになる。これらを、司法で明確に分けることは困難だろう。
日本では、死の議論が未成熟な上、なおかつ「終末期の判断」を医師任せにしている。それが最終的に、患者や家族や医師の間で摩擦を引き起こす。延命治療を中止した医師は、訴訟になれば無罪は勝ち取れない。これこそ、日本の現状であると思う。
私なりの最終的な答えは出た──須田がしたことは殺人ではない。
※SAPIO2017年7月号