◆世界と地方が結びつく時代
奈良岡:もう一つ、興味深かったのは、彼らの生きた時代を通じて歴史を見ると、東京とその他の都市の関係についても、あらためて考えさせられたことです。
僕の住んでいる京都は明治維新の頃、一時的に政治の中心地になったわけです。都が東京に移って一気にその中心性を失うわけですが、その後、明治の京都では琵琶湖疎水といった新しいインフラ整備が行われたり、勧業博覧会が開かれたり(明治28年=1895年)していた。同志社には、洋学を学んだ教師たちが集まっていた。いわば京都が、西洋文明を摂取する拠点の一つになっていたのが、あの時代の特徴なんです。例えばそうした京都の中心性と、奈良の吉野で林業をしていた土倉家の教育方針などは、かなり連動していたんだろうと思います。
出口:土倉庄三郎は自由民権運動に力を入れ、板垣退助の洋行費用も出したと言われていますね。大阪や京都を中心とした文化圏・経済圏があったからこそ、奈良の山奥で事業を行う彼のもとに要人がしょっちゅう訪れたり、横浜港への中継地だった鳥羽で真珠の「ミキモト」が生まれたりしたわけですね。彼らにしてみれば、東京に行くよりその方が手っ取り早かった。鉄道や飛行機がなかった時代には、これほど多様な日本があったのかと想像が膨らみます。
奈良岡:そうですね。僕の出身地である津軽からは、明治期に珍田捨巳や佐藤愛麿といった人物が出ています。彼らは津軽からアメリカに直に留学して、外交官になった人たちです。彼らについて調べていると、当時は東京に行くのもアメリカやヨーロッパに行くのも、ある種の人たちの中ではそこまで変わらない、という感覚があったような気がしてきます。地理的にも経済的にも、ローカルなものとグローバルなものが、直接的に結び付きやすかった時代なのでしょう。
出口:なるほど。人材でも情報でも、ローカルとグローバルとの直の結びつきを、地方が模索していた時代──彼らの生きた時代をそう捉えると、現代に通じるエッセンスがたくさん得られそうです。先ほど述べた梅屋庄吉にしても、長崎に住んでいる少年にしてみれば、海を少し隔てた上海は東京よりもずっと近い場所だったはずですから。
ちなみに、APUも別府の山の上にある大学ですが、5割以上の学生が外国人。90の国から3000人が集まっているので、小さい地球、若者の国連と呼んでいるんです。世界と地方がすぐに結びつくという意味ではよく似ています。